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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 絶望 (第9章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

悪とは、すべての人間は生まれつき利己的で堕落しやすい存在であるため、いかなる美徳の追求は偽善であると論ずることによって愛や真実に異議申し立てする有能な論理である。
-ロバート・グレイヴス

 多くの人が、気候変動の解決にはオルタナティブテクノロジーという離床する選択以上のことが必要とされることを理解していますが、同性愛者のための結婚の平等、ホームレスへのコンパッション、自閉症の人たちへのケアなどに人生を捧げている人たちが、私たちの種の存続のために必要不可欠なことをしていると言う人はほとんどいないでしょう。しかし、それはただインタービーイングに対する私たちの理解がまだ浅いからなのです。私が示唆したいのは、「分離の物語」を侵害するか、中断させるものは何でも、その物語が招いたありとあらゆる結果を癒すことなるということです。これには、「分離の論理」に浸っている私たちの合理的なマインドが違いをもたらすことはあり得ないという、目にも見えない小さな行動さえもが含まれています。それは世界を救おうとする大きな聖戦からは排除されるような種類の行動も含まれます。


 私は最近、過激な雑誌「アドバスターズ」の創始者であり、ハンズオンのアクティビズムの推進と実践に生涯を捧げてきた男、カレ・ラースンと話をしました。彼は95歳の養母の世話をしているため、もうだいぶ前から政治や雑誌の仕事にはあまり時間を割いていないと言っていました。「私にとって、彼女の世話をすることは、他のすべての仕事を合わせたものよりもはるかに大切なことなのですよ。」と彼は言っていました。


 「私たちの世界観は、その真実と重要性に便宜をはからなければならないですね。」と私が言ったとき、カレは同意してくれました。読者の皆さん、地球を救うために、95歳の養母を置き去りにしなければならないという現実を容認できますか?私たち人類の美しい一部分である親密で計算づくではない奉仕の活動のための場所が、私たちの宇宙がどのように機能しているかの理解の中にはあるべきなのです。


 この老婦人の世話をすることで、何か意義のあることをしているという気持ちをカレは信頼していいのでしょうか?


 その意義を否定するいかなる信念体系が問題の一部であるということをあなたは本能的に知り得ないのでしょうか?


 彼がしていることが大切とはされない世界で生きていくことにあなたは耐えられますか?


 その意義の感覚を抑えつけることで、世界を貪り食う機械が動き続けるためのタスクを私たちは遂行しているのです。現実性の利益のために抽象的な推論がそうするべきだと命じることを、自分自身を非情にして行っているのです。時に、この「現実性」は、「生態系を癒すことを助け、社会正義をもたらし、種の存続を可能にするもの」を意味しますが、ほとんどの人にとってとほとんどの場合、現実性はお金やその他の手段による安全や安心に関わるものなのです。そして、現在の貨幣システムの中では、一般的にお金は、自然を製品に、コミュニティを市場に、市民を消費者に、つながりをサービスへと変換することに私たちが参加することによってもたらされています。もしその参加にあなたの心が込められていないのであれば、現実性と心が求めていることがたびたび相反していると感じることでしょう。


 問題は、現実的なものが何であるかという利己的な見方よりも遥かに深いところにあります。それは、その根底にある因果関係の理解にまで及んでいます。心が求めていることは、お金からの命令に相反するかもしれないだけではなく、道具主義者的な論理とも完全に相反するかもしれないのです。


 世界に現実的な変化を起こそうとするときにマインドの論理を無視するべきだと言っているわけではなく、テクノロジー、文学、あるいは何千年も続いた「分離」の旅の成就を放棄するべきだと言っているのでもありません。コントロールというツール、力と理性の適用には、その居場所が確かにあります。人類は自然の中の例外ではありません。すべての種がそうであるように、私たちのギフトは全体の幸福と発展に独自に貢献することができるのです。私たちはいまだこの精神で私たちのギフトを生かせていません。代わりに、ガイアとすべての彼女の生き物たちの健康状態を衰えさせ、つまり、私たち自身を衰弱させるということ、支配し征服するためにギフトを使ってきたのです。今私たちは、人間ならではのギフトを、支配のための道具から奉仕のための道具へと変容させるチャンスを手にしているのです。


 はっきりと、「現実性」の手段が適切なのはいつなのでしょうか?簡単に言ってしまえば、私たちの因果関係の現在の理解の内側から何かを行うやり方が分かっているときに、それらの手段は適切なのです。もしコンロが火事になっていて消化器があるならば、もちろんその消化器を使います。それを無視して、その代わりに奇跡を祈ったりはしないのです。


 しかしその一方、もしあなたの家が燃え盛る地獄のようになっていて、あなたが持っている物のすべてがその任務を果たすには全く十分ではない小さく心細い消化器である時には、炎を目の前にして英雄的な態度でそれを振り回すべきではないのです。


 後者の状況は、現在の私たちの苦境をよく表しています。確かに、私たちの家が火事になっているのは真実です。環境警報主義者が言っていることは本当です。私は「警報主義者」を蔑称として使っているわけではありません。それどころか、状況は、(警報主義者というレッテルを恐れて)彼らが公で語っているよりも悪いのです。ですが、私たちはそれについて何をすべきなのでしょうか?あるいはさらに核心に迫れば、それについて”あなたが”何をするべきなのでしょうか?現代社会にいるほとんどすべての人が深く内在化している従来の因果関係に従って、現実的なことをするためにあなたは何ができるでしょうか?何もないのです。ですから、私たちは別の種類の導きに従うことを学ばなければならないのです、何が可能かが拡大されている領域へと連れゆく導きに。


 私の言っていることが真実だとしても、絶望の種を蒔くのは危険だと考えるかもしれません。しかし、私が種を蒔こうか蒔くまいが絶望はそこにあるのです。私が尋ねてみたすべての活動家たちは、私が呼び覚ましている絶望に一度や二度は直面したことがあると認めていました。「確かに、あなただけが変化を起こしているならば違いはないですが、皆がそうするのであれば、世界は変わるでしょう。」といった推論で、私たちは絶望を目立たなくしているのです。確かにそうですが、あなたの力で皆にそれをやらせることはできますか?できませんよね。皆がやっているのであれば、あなたがやることは重要なのです。同様に、皆がやっていないのであれば、あなたがやっていることは重要ではないのです。この論理の条件の内側では、私はこの論理から逃れる方法を見つけたことはありません。それはその前提条件、つまり客観的な世界の中にいる分離した自己と同じくらい堅固なのです。さらに悪いことには、私たちに誤った自己満足感を与え、より効果的で革命的な行動を抑えてしまうがために、地元のものを買ったり、リサイクルしたり、自転車に乗ったりする私たちの個人的な努力は逆効果であると言う人たちもいるのです。デリック・ジェンセンが言うように、時短にしてシャワーを浴びなくていいのです。


 本当の希望はその向こう側にしかないのですから、絶望は曖昧にしないほうがいいと私は思うのです。絶望は、私たちが踏破しなければならない領域の一部なのです。向こう側にたどり着くまで、絶望は私たちの心に重くのしかかり、私たちは自分たちが何か良いことをしていると完全には決して信じることができずとも辛抱し続けるのです。しかし、どんなに強い精神力を持っていようとも、努力は揺らぎ、エネルギーは衰え、私たちはあきらめてしまうのです。しばらくの間はおそらく、個人的な虚栄心が私たちを進ませるでしょう、自分が倫理的であり、意識が高く、”解決の一部である”というセルフイメージを掲げながら。しかし、そのモチベーションには、私たちが必要とする勇気、コミットメント、信仰へと私たちに至らせるに十分な深みがないのです。


 真の楽観主義は、絶望の領域を踏破し、措置を講じたところからやって来るのです。その楽観さは危機の大きさについて無知なわけでも、癒しの道に立ちはだかる力に気づいていないわけでもありません。時々講演会で人々は、私がシステムの仕組みについて気づいていないか、わざと無知であろうとしていると想像して、権力エリートとそのプロパガンダマシーン、彼らによる金融や政治の支配、あるいは彼らのマインドコントロール技術についてさえも私に学ばせるために対峙してきます。もしくは、大衆の無関心さやただ理解力のない人々の強欲さと無知さ、そしてその人たちがいつか変化することがありそうもないということについて話したりします。これらはすべて、私がよく知っている絶望の領域の一部なのです。それが耐え難いので、その荒涼とした真実から私は遠ざかっているのではないのです。楽観主義は絶望の反対側にあり、希望はその先触れなのです。


 それ自身の条件下では、絶望の論理は難攻不落です。その絶望はこの惑星の状態についての絶望以上を含むのですが。その絶望は、私たちを力と質量からなる縁もゆかりもない宇宙へと投げ入れる、私たちを特徴付ける神話体系にもまた織り込まれているのです。この神話体系が、宇宙の中での私たちを瞬時に孤独な状態にするのと同時に、その神話体系を大きく変えることをできなくさせているのです(あるいは、同じ力が私たちの行動を決定づけることを考えると、全く変えることができないのです)。おそらくこれが、私が今説明した絶望の訴えの背後にある感情のエネルギーが、オルタネティブな科学的パラダイムの拒絶の背後にあるものと同じである理由なのでしょう。私の以前の本を読んだ読者は、現代の偉大な頭脳であるバートランド・ラッセルの『自由人の信仰』からこの一節を再び引用したことを許してくれるでしょうね。

人間とは、それらの原因が達成しようしている結末を予見していなかった原因の産物であり、彼の起源、成長、希望と恐れ、愛と信念は、原子が偶然に結びついたものに過ぎないのです。火も、英雄的行為も、思考や感情の強さも、墓場を越えて個人の生命を維持することはできないのです。あらゆる時代の労苦、すべての献身、すべてのインスピレーション、人間の非凡な才能のすべての昼間の輝きは、太陽系の大いなる死の中で滅する運命にあり、人間の業績のすべての神殿は、必然的に廃墟と化した宇宙の残骸の下に埋もれてしまうに違いないのですーこれらすべてのことは、論争の余地がないとは言えないにしても、それらを否定する哲学が立ちはだかることが望めないことはほぼ確実なのです。これらの真理の足場の内側でのみ、揺るぎない絶望という強固な土台の上でのみ、これから先、魂の住処を安全に建てることができるのです。


 私が暗示したように、ラッセルが結論の土台としている物語は、もはやそれほど確かなものではないのです。これらの結論を否定する哲学は、量子的な相互関係性と不確定性、自発的な組織化とオートポイエーシスに向かう傾向のある非線形システム、DNAを目的を持って再構築する生物や環境の能力、さらなるパラダイムシフトを約束する科学のアノマリーの拡散を土台にして実際に立つことを望めるでしょう。厳密な哲学的根拠を示すことはしていないですが、これらの科学的革命のすべては、少なくとも比喩的には、全く異なる「人民の物語」に適していることを私は目の当たりにするのでしょう。


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