思いやりとは何か
「あなたがAくんだったらどう思う?」
小学生の頃によく聞いたフレーズだ。Aくんと2人で教師の前に立たされた少年は考える。
「…イヤな気持ちになる。」
「じゃあ、どうすればいいか分かる?」
「ごめんね。」
さして珍しくもない、教師と生徒のやりとりだ。少年はAくんに謝り、Aくんも不満そうにしながらいいよ、と返す。場が収まったような生温かい感覚を帯びながら、教師は仕事は済んだと言わんばかりに立ち上がる。
素直な子供なら、自分がそうされたら嫌だからしない、自分がされて嬉しいことをしよう、と、善行を積んでいく。それは共通感覚(コモンセンス・あるいは常識)の範疇において、極めて正しい取り組みといえる。しかし大人になる頃には、社会には多様な価値観が存在する。
「あなたがAくんだったら」というのは他者性を考える取っ掛かりとしては良いかもしれないが、そのまま大人になったら大変なことだ。「自分がされると嬉しいこと」が「Aくんがされると嫌なこと」である可能性に気付けなかったら、それは事件である。
いつの間にかお節介な人の出来上がり。自分は思いやりのある優しい人間だと信じて、周囲にありがた迷惑を撒き散らす「善人」である。悪い人じゃないんだよね、と言われながら、どこか煙たがられている人が貴方の周りにもいるかもしれない。
当たり前のように使われていて、しかし捉えどころのない「思いやり」とは、一体なんだろうか。
子供の産まれた友人B宅に、姑から夫の学習机が送られてきた。曰く、B夫が幼少期から使っていた質の高い品だそうだ。孫にも是非使ってあげたらと、ウキウキの電話がかかってきたという。たしかに重厚な木材の机。しかし。広くはないアパートでの仮住まいの、一体何処に置いたら良いというのか。そもそも子供が机を使うまでに、何年かかると思っているのか。そんなことをボヤきながら、「でも送り返すわけにもいかないし」と彼女は頭を抱えていた。
この場合、姑には(おそらく)悪気はない。きっと純粋に孫が愛おしくて、愛息子の使っていた特別な思い出の品を贈ったのだろう。本当は手元に残しておきたいけれど、もし自分が息子の嫁だったらさぞかし喜ぶだろうから、と思ったかもしれない。
ここに「自分がAくんだったら」の構図がみえる。残念ながら姑の価値基準が嫁のそれと一致していなかったために、せっかくの善意は只わだかまりを増やすことになってしまったのだ。
「思いやり」とは何か。
「AくんがAくんの状況だったらどう思うか」を想像するのが思いやりではないかと考える。則ち、思いやりとは想像力である。自分と相手は違う人間だという当然の前提に立ち返って、「相手が相手の立場だったらどうか」と考える。付き合いが長くなれば自然と分かることも多いが、勿論これは容易なことではなくて、根底には人に対する敬意と尊重の精神が必要であるように思う。
そういった「思いやり」の心が増えれば、善意が善意のまま他者に伝わりやすくなるのではなかろうか。
不特定の人の目に触れる可能性のあるここに記す文章は、誰かを傷つける「思いやりのない文章」になるかもしれない。おそらくは共通感覚と思われる価値基準の範疇で、読み手を想像して慎重に言葉を選んでいく。
拙文を最後まで読んでくださったことに、至上の感謝を込めて。
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