見出し画像

眼鏡の彼

眼鏡の彼というのは、私が大学2回生の秋に仲良くなりはじめた男の子である。

その名の由来は非常に単純で、彼がいつも眼鏡をかけている男の子だからだ。このネーミングはあまりに安直なので、もし本人に聞かれたら「もっと他になかったの?」と怒られてしまうだろう。

私は誰かに狙いを定めてから実際に話しかけて仲良くなるまでの期間が割と短い方だ。しかし彼と満足に仲良くなるために、私はとても時間をかけたと思っている。

だって私が彼と初めて話したのが約2年も前だというのに、本当に腹を割って話をするようになったのは今年に入ってからなのだ。

これは驚くべきことだ。

彼と仲良くなるのに時間をかけた(あるいは時間がかかった)理由は、彼が私に対してなかなか心を開いてくれなかったから、というのが最も大きい。

眼鏡の彼とは、2年後期に取っていた授業でグループが一緒だったことをきっかけに話すようになった。ちょうど私がはじめてカッターシャツの彼についてのnoteを書いたころだ。秋から冬にかけての寒い季節で、その授業は5コマ目だったので帰るころには日が落ちて外は真っ暗になっていた。

まだみんなの関係性がどこかすこしよそよそしかったころだ。

私の彼に対する第一印象は、真面目で誠実そうだな、というものだった。言い換えれば、彼はそう易々とはひとと馴れ合わなそうな、どこか堅苦しそうな雰囲気を醸し出していた。

しかしグループで活動するうち、私は彼の人柄のよさに確信を持つようになった。

彼はリーダーシップを発揮し、率先して何かをするというタイプではなかったけれども、私や他の誰かが発言をすると必ずそれについて素直な意見を述べてサポートしてくれた。分からないことがあればすぐその場で調べて解決するし、誰かが提案した何かをよりよくするための手段を知っていたらすぐに教えてくれた。

その授業で互いの顔と名前を認識し、それ以降、私は彼を見かけるたびに「おはよう」とか「元気?」とか話しかけるようになった。

彼は最初は「おはよう?(今お昼だけど?)」とか「全然」とか、一言しか言葉を返してくれなかったけど、少しずついろいろ話してくれるようになった。

いちばん驚いたのは、彼の一人称が「私」だということだ。

面接を受けるときや小論文を書くとき、男の子も女の子も関係なく、自分のことを「私」と言いなさい、と指導されたことがあると思う。

しかしどう見ても自分を「私」と言わなさそうな男の子たちが、そういうときだけ「私」と言わされたり書かされたりしているのが私はあまり好きじゃなかった。普段は「僕」とか「俺」とか言っているのに、そのときだけ演技させて取り繕わせるなんて嘘くさいなあ、と思っていた。

それは確かに、社会に出ていく上での最低限のマナーなので仕方がないのだと理解はできるのだが、でもやっぱり私はそう思ってしまう。

けれど不思議なことに、眼鏡の彼の言う「私」はちっとも嘘くさくなかった。むしろそれが妙にしっくりきているくらいだったので、私は彼の一人称を知ってますます「いいな」と思った。

彼とはいろいろな話をしてきた。それは私が引き出したものも、彼が自発的に話してくれたものもあるけど、いずれにせよ彼の口から語られる言葉が増えていくのは、彼の信頼を少しずつ勝ち得ていることの裏付けであるような気がして素直にうれしかった。

小さいころ病気がちだったこと、両親のこと、ふたりいるお姉さんのこと、飼っている猫のこと。彼の名前のこと。

そう、私は彼の名を、とても魅力的だと思う。

彼を最初に知ったときから、私は彼の名前がすごく好きだった。おそらく大学で出会った誰よりも魅力的でしっくりきている名前だと思う。だから彼の名を具体的にここに記せないことをとても惜しいなと思う。

彼がどんな名前なのかというと、5月の風を思い出すような名前だ。彼と知り合ってから、私は「風薫る」という言葉を聞くとその都度彼の名を思い出す。さわやかで瑞々しい、若い芽吹きの香りを運ぶ風。


そんな彼はここ最近、明らかによく話しよく笑うようになった。

最初は遠慮がちな微笑み(限りなく失笑に近いもの)しか向けてくれなかったけど、今では声を立てて笑うし、冗談を言えば乗ってきたり突っ込みを入れてくれたりする。私が彼の笑うポイントを正確に理解しはじめたからというのはもちろんだろうけど、どうもそれだけではなく、彼が私や私たちに気を許し始めたからだ、と私は思っている。

彼の心の開き方があんまりにも分かりやすいので、私は眼鏡の彼と話すたびにすこし嬉しくなってしまう。ここまでようやくきた、と。

***

この前、ゼミの何人かで飲み会をした。

その日の飲み会は眼鏡の彼が提案して開催になったのだが、彼は本当に気を許した相手じゃないと自分から誘わないような人間なので、誘われた面々は胸の中でにまにま笑っていたはず。

彼は料理をするひとなので、よく学生研究室に手料理を持ってきて私たちに振る舞ってくれる。

その日もごはんを作ってくれるというので、当初は彼の家でのごはん会を予定していた。しかし私は私の恋人が以前「カラオケとかは行ってもいいけど、宅飲みはあんまり嬉しくないなあ」と言っていたのを思い出し、あんまりよくないなあ、と思ってその日のことをもう1度相談した。

恋人は普段とてもおおらかなので、私を束縛するようなことはほとんど言わない。あまりに寛容的なので、「えっ、そんなに私のこと好きなの?そんなに私を信頼してくれてるの?」と思う。

だからこそ、恋人が明確に「いやだ」と言っていたことをわざわざやりたくないと思い、その日集まる予定だった眼鏡の彼と、うっかり屋さんの彼女に相談した。ふたりは「気づくべきだったのに気づかなくてごめん」「家じゃなくてカラオケでやろう!」と言ってくれた。

私はふたりはきっとそう言ってくれると思っていたけれど、それってきっとあたりまえではないので、やっぱりうれしかった。すばらしいひとたちと友人になれてよかったと身に染みて感じた。

そしてカラオケに集まってごはんを食べながら映画を見たり歌ったりして(眼鏡の彼の作ってくれた唐揚げなどを食べた、おいしかった…)、あれこれ話をした。

そのとき、なんと彼が今年に入るまで意図的に私を遠ざけていたのだということを、彼自身の口から伝えられたのだ。

どうして!と憤慨している私を、彼は「ちがう。ちがうんだよ」と片手で静止しながら続けた。

「あなたすごいグイグイ来るじゃん。こっちとしてはさ、それがこわいわけ。『えっ、なんで私にこんなに話しかけてくるんだろ?』って思うわけ。しかも結構そっけなくしてたつもりなんだよ、私。でも全然めげないんだよあなた。お構いなしにめっちゃ話しかけてくるじゃん」

彼はそう言い、私はそれを不服に思いながら聞いた。しかし問題はその次だった。彼は「だからこんなひとに彼氏がいなかったら絶対おかしいと思ったの」と言ったのだ。

私はそこで頭がこんがらがってしまい、「ん?え?待て待て!」と話を中断させた。

「私があなたに対してグイグイ行くことと、私の彼氏の有無に一体なんの関係があるの?」


そうではないか。どちらかといえば、恋人がいるのにことあるごとに異性と仲良くなろうと声をかけ続けている存在の方がはるかに問題だと思わないだろうか。私はそう思うのだけれども。

すると彼は「違うんだよ。あるんだよそれが」と首を横に振った。何が違うんだ?と思ったけれど、そのときは言わずに黙って話を聞くことにした。

「だって考えてみな?こんな人あたりよくてさ、明るくてさ、いいひとなんだから、恋人いる方が普通じゃん。こんなひとに恋人がいないわけないじゃん」

身構えていたらあまりに急激に褒められ、どんな顔をしていいのかさっぱり分からなくなり、私はわざと眉間にしわを寄せてしかめ面をつくって「う、うん…」と相槌を打つことに徹した。彼はそのまま私にこう訴えた。

「だからもし彼氏がいないんだったら、相当ヤバいひとだなって思ったの。こんな光みたいなひとに恋人がいないとか、絶対おかしいじゃん」

私、光みたいなひとか?と思いながら、「恋人いない方が逆にやばいってこと?」と訊き返した。彼はこちらをまっすぐに見て強くうなずいた。

「そうそう。だからもし恋人がいないなら尚更近づいたらやばいと思って、彼氏がいるか分かるまではちょっと距離取ってたんだよ。で、最近彼氏いるのがわかって『そりゃそうだよな!ああよかった、大丈夫なひとだ』と思って安心したから、今こうして仲良くしてんの」

***

彼はどうやら私をすばらしくまばゆい人間のように思っているようだけど、それゆえに私の影の部分が垣間見えたら恐ろしいと思ったのだろう。裏で何を考えているんだろう。なんでこんなに声をかけてくるんだろう。意図が分からない。そう思って私を警戒していたのだ。

そして彼の理論から推測するならば、彼は私の彼に対する距離の詰め方に相当恐怖を感じていたことになる。

結果的に彼とこうしてよい友人になれたので後悔はしていないけれども、そこだけはすこし申し訳なかったな。私は純粋なる好奇心から彼に話しかけていたのでちっともそんなつもりはなかったけれども、グイグイ行っていたことは否定できない。

よく考えたら、大学の他の友人にも言われたことがある。

ワニの筆箱の彼は、以前「あんたのその自分から行動して誰かと仲良くなりに行くとこ、素直にすごいと思う。マジで」と言ってくれた。

しかしこれまた大学のお友だちである姫カットの彼女は、「〈青葉〉ちゃん最初急に話しかけてきたから本当にこわかった。今はもういいひとってわかったけど」と言っていた。

それっておそらく言い方は違えど同じことを指しているのだと思う。

私は誰かにギュッと距離を詰められると「おやおや?」と思ってワクワクしてしまう人間だ。だから他者と仲良くなるときにもついそうしてしまう。「誰かに急に声をかけられるなんて物語チックでいいじゃない」と思うから、物語のように日常を生きるためのきっかけをできるだけ逃さないようにしている。

それがよいことだと思ってきた。

しかし眼鏡の彼と話をして、それに恐怖心や猜疑心を掻き立てられる人間もいるのだな、と初めて気がついた。

もしかすると、今私と仲よくしてくれている他の友人の中にも、私の距離の詰め方に恐怖心を抱いていたひとがいるのかもしれない。それについては、素直に、ごめんなさい。こわがらせてしまったこと、謝ります。

ただこれだけは言いたい。相手が最初に私に恐怖を感じていたのだとしたら、だからこそ仲良くなってくれたことに価値があるのではないか?

何をどう言われても、私は眼鏡の彼が心を開いていってくれるあの過程が楽しかった。今ではこうしてなんでもかんでも話せるようになった。何より私たちは同じ教授のもとで同じことを学んでいるので、感覚もどこかすこし近く、そういうひとと知り会えるのが大学という場のひとつの役割だと思うのだ。

疑いのまなざしを向けていたのに、そこを超えて私と仲よくなってくれてありがとう。もっといろいろ話をしよう。これからも友人でいてね。

***

最後になったけれども、眼鏡の彼は、彼が自分で思っているよりずっと魅力的な人間なので、私は卒業するまでの半年間でそのことを訴え続けたいと思う。

彼は他者のことをすごくよく見ていて、しっかりと評価できる人間なのに、自分のことになるとどこかすこしネガティブだ。枕詞のように「私みたいな人間が」と言うし、「私はこういうとこが駄目なんだよ」とか「あなたとは違うんだよ」とかよく言う気がする。

それも私たちに気を許してくれた証拠のひとつだと思う。

あなたは自分をそういうふうに思ってるかもしれないけど、でもそういうあなたと友人になれてよかったと思っているひとがいるんだから、もう少し自信を持つのよ!

そういうことを言葉と態度で示し続けたい。

「それくらいなら許してくれるでしょ」と訊いたら、彼は「えぇ…うん」と笑うのだろう。





この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,418件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?