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胸元に咲いた、その赤い花を

3月を迎え、風が春色になる季節になるとふわりと思い出すことがある。私が中学生のとき好きだったひとのことだ。そのひとは同じ吹奏楽部の先輩で、私よりひとつ年上だった。

彼を好きになったのは、彼が私の楽器を運んでくれたのがきっかけだった。


私が担当している楽器はコントラバスだった。

コントラバスは152cmの私の身長よりも大きな弦楽器。そのほとんどが木でできており、しかも中は空洞なのでさほど重たいわけではないのだけど、体育館で演奏するときにはケースごと抱えて運び、学外の演奏会に出演するときには、他の金管楽器や打楽器と一緒にトラックで運搬する必要があった。

私の通っていた中学校は音楽室が3階にあったので、楽器運びは相当な重労働だった。トラックに積むにしても1階まで持って降りなくてはならないし、体育館に運ぶとなると昇降口から外へ出て石の階段を上がって行かなくてはならなかった。

私を2年間担任してくれた先生は、「吹部ってすごいよねえ。いつも引っ越し業者みたいだなあと思って見とるわ」と、ことあるごとに私たちを褒めてくれた。

そんなこんなでいつだったか、入部してからはじめて体育館で演奏した日、演奏が終わって、私がえっちらおっちらコントラバスを抱えて運んでいると、ある先輩が急に私のところへやってきた。

「大丈夫?僕が持つよ?」

その先輩は男子で、そう問いかけながら手を伸ばし、私から楽器を奪い取ろうとした。しかし私はこういう場合にどうしたらいいのか(断るのがいいのか、それとも任せるのがいいのか)分からず、男子にやすやすと力仕事を任せるのも癪だったので、楽器ごと身を引きながら首を横に振った。

「いや、いいです。大丈夫です!」

いま思えばかわいげのない後輩だと思う。

(私は中学3年間で、こういうときは「いいんですか!」とあっさり任せてしまうくらいの後輩の方が、先輩にとってかわいいのだということを学んだ)

「いいから、僕が運ぶよ!君1年生でしょ?」
「ありがとうございます!でも大丈夫です!」
「いやいいんだよ!ほら、貸しな!?」
「いや!でも!」

押し問答はヒートアップして続き、どんどん声が大きくなっていった。周りにいた他の部員に見られているなあ、どうしたらいいかなあと思っていると、その先輩は最終的にこう言い放った。

「僕が持ちたいのお!!」

「僕が持ちたいの」!?
なんなんだそれは!

というのが正直な感想だった。

しかし、そんなに持ちたいならぜひ持ってもらおうと思ったので、私はそこでようやく彼に楽器を委ねた。彼はうきうきとコントラバスを運んでいき、私はあっけにとられたままその場に残された。

いま思うと、その当時私以外に奏者がいなかったコントラバスという楽器を持ってみたかっただけだというのは明白ではあるけれども、私としては、そんなふうに強引に楽器を持っていかれると思っていなかったので、それからその先輩が気になって目で追うようになってしまった。

そして私はそのときはじめて「男の子に重たい荷物を運んでもらってきゅんとする」という、よく耳にするわりには意味のわからなかったそれを理解できてしまい、ちょっぴりくやしかった。

それからは長きにわたる片思いだった。
その先輩は楽器運搬の機会があると、よく私の楽器を運んでくれて、私はそのたびきゅんと甘酸っぱく胸を高鳴らせた。

彼は今思い出してみてもとてもへんてこりんなひとだと思う。

フルートを吹いていたのでより際立ったのかもしれないけど、彼にはちょっと女性的なところがあった。話し方とか、立ち居振る舞いなんてものがそうだった。体操服の長袖を萌え袖にしているのとか、語尾が「~なのお?」とか「~でしょお!」とかなっているのとか。

けれど私はそういうのもきらいじゃなかった。
彼の持っている、くるっとした髪と褐色の健康的な肌や、薄っぺらいお腹とほっそりした足…あの細さが、とても好きだった。

しかしいちばん好きだったのは横顔だ。
彼が部活中、フルートを吹いているときの横顔は、ほかの何よりも魅力的だった。音楽室での合奏練習のとき、私のいるところからは彼の姿がよく見えたので、暇さえあれば何度でもその横顔を盗み見たものだ。

横顔だけではなく、私はじっと彼を観察した。

ぴかぴかと輝く銀色のフルートをそっと構える指、そこにつながる、まくりあげられたカッターシャツから覗いている腕。演奏が開始する直前に楽器に唇を押し当てるその瞬間の凛々しい表情、そういうのが好きだった。こんなことを中学生が口にするとちょっと白い目で見られるので、あまり口に出しては言えなかったけど、よく憶えている。

先輩の姿を見たくて、1日1回でも話せたらうれしくて、そういうのを楽しみに放課後部活に行っている時期が私にもたしかにあったのだなあ、となんだか懐かしく思う。

彼は部員のひとりとして、やがては副部長として、自分がいつ、どんな風にふるまえば周囲を笑わせたり緊張させたりできるのかということを、すごくよくわかっているひとだった。重要なところでも決して出しゃばらず、与えられた自分の役割を演じているひとだった。

私は中学校前半、恋心をそのひとに費やした。

私は自分に自信がなくて、そのくせ弱虫だったので、面と向かって告白はできなかった。LINEで「先輩が卒業するときに名札が欲しい」ということを伝えたものの曖昧に断られ(第二ボタンはおこがましいと思ったから、名札をくださいと言ったのだろう)、そのあとだだもれの好意を伝えて振られ、それからはもうなにもなかった。

その先輩が卒業する日は、あたたかくてよく晴れていた。
私の卒業式もこうあってほしいと、うらやましく思うくらいに春の気配が充満していた。


卒業式、吹奏楽部には大切な仕事がある。

卒業生の入退場はCDではなくて私たちの生演奏によって進んでいくのだ。私たちは卒業生を送り出すために、国家斉唱を行うために、そして母校の校歌を歌うために、いくつかの楽譜を携えて、体育館の後ろで式を見守った。

私は先輩たちが引退してから部長を任されていたので、式典が滞りなく厳かに進むために自分たちの役割は重要だと胸に刻み、仲間たちとそれを共有した。

卒業式は無事に執り行われた。

先輩もいなくなり、これから後輩を率いていくとなれば、もう楽器は自分の力で運ぶしかなく、私たち吹奏楽部は式の後でせっせと楽器を音楽室へ戻し、体育館で使った箇所を片付けた。

そして卒業式とそれに関係する諸々のことが終わると、下級生はみんな昇降口から表に出て、3年生が教室から出てくるのを花道をつくって待ち受けていた。

私は先輩が卒業を迎えるころ、もう彼を恋愛対象としてみていなかった。同級生のある男の子のことが好きだったから。

しかし私が中学時代の半分以上を費やして好きだった男の子なのだから、そのひとが卒業するさまをしっかり見届けよう、と決意していた。

やがて最後のホームルームが終わった3年生が手にいっぱい荷物を抱えたまま、ずらずらと外へ出てきた。ゆっくりと花道を通り、その都度かかわりのある後輩たちと話をしたり、手紙を送られたりしていた。あちこちがおしゃべりの和やかな声で満ちていた。
春の空気がそうさせているのだと思った。

私も部活でお世話になった先輩や、ひとつ年上の又従姉の女の子が近づいてくるのを見計らって声をかけたり、そうでないときは近くにいるともだちとおしゃべりしたりしていた。

列はそれなりに長かったけれど、午後はのんびりとしていたので待つのは苦ではなかった。

そうこうしているうちに、私が好きだった先輩が、仲良しの男の子たちと塊になって近づいてきた。
私が彼を目の端にとらえつつ、なんとなく知らんぷりしていると、彼は私を見つけてこちらへまっすぐ寄ってきた。

その予想外の行動に、私も私の友人も彼の友人も驚き、目を丸くした。一体何事かと思っていると、彼は私を見ながら口を開いた。

「これ…名札はあげられないけど」

彼はあまり笑いかけてくれるひとじゃなかったけれど、そのときだけは私に向かってはにかんでいた。
私はずっと焦がれ続けてきてついに触れることができなかったそのきれいな指から、フルートを演奏するあの繊細な手から、安全ピンつきの、赤く小さな造花を受け取った。

それは卒業生が式典の間、胸元に飾っていた花だった。

一瞬あっけにとられたけれど、私は咄嗟に「ありがとうございます」とほほ笑んだ。
取り乱さず自然にことばが出てきたのだ。

自分でも驚いた。

彼を好きな女の子は私の他にも幾人かいた。けれど彼はそれらの女の子ではなく、私に赤い花をくれた。さっきまで胸に飾っていた花をだ。
そう思うと胸がいっぱいになって、自然と口元がほころんだ。うれしかった。

私の恋はこの日のためにあったのだと思った。

彼はそのまま友人たちと花道を去っていき、私の手には赤い花だけが残った。そのあと、同級生たちと並んで写真を撮っている彼の胸には赤い花はなかった。他の卒業生の胸元にはあるのに、彼の胸元に花は咲いていなかった。

だってその花は私の手の中にあるもの。
そう思うとむずむずして、今にも飛び跳ねてしまいそうな気分だった。

私はその花をそっと握りしめて家へと帰り、そして今でも大切に持っている。中学時代の思い出の品々とともに、アタッシュケースに詰め込んである。


その花は私以外の誰が見ても意味をなさない偽物の花だけど、その花のおかげで、私は、その恋をきれいにきれいに終わらせることができたのだ。

その先輩と話すことはもうない。会うこともなければ思い出すこともしない。

しかし3月の風が吹きわたり、春の光が私のいるところを照らすようになると、あの日のあのよろこびが今でも私の胸を静かに満たすのだ。

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