見出し画像

植民地と恐怖 -暴力のブーメランについて

・因果応報?

植民地における暴力が、ヨーロッパにおける暴力を生んだという説がある。

例えば、カール・マルクスは、イギリスの児童労働のプロトタイプは、西インドやアメリカでの黒人奴隷制だと主張した。

またハナ・アーレントは、「全体主義の起原は帝国主義である」と主張した。

つまりヨーロッパ人がヨーロッパの外に出ていき、
非ヨーロッパを支配するために「進化」させた暴力が、
今度は、ブーメランのように、まわりまわって、めぐりめぐって、
ヨーロッパ内部でのおぞましい暴力を生み出したというわけだ。

実際、第1次世界大戦時、ヨーロッパで使われたダムダム弾と呼ばれる非人道的兵器は、イギリスがインド人の反乱を鎮圧するために発明したものであった。
またヨーロッパで犯罪捜査に用いられるようになった指紋の採取と管理も、そもそもはイギリスがインド人を統治するために始めたものであった。


どうやら、ある種の暴力は人種の枠や国家の枠を超えて、転移するようである。
この記事ではフランス近代史の例を挙げて、考えてみたい。


・ハイチで、スペインで

ナポレオンは、自分に都合の良い秩序を、トップ・ダウンで、おしつけようとした。

反抗する者たちには容赦なかった。
ハイチの黒人奴隷たちの、またはスペインの民衆たちの、自由を求めた反乱を、武力でおさえつけようとした。

スペインに送られたフランス軍は、ゲリラを殺すと、その死体を切断して、手、足、首を、街道の木々に括り付けた。
住民に見せつけて、恐怖させるためであった。


・アルジェリアで

さて、ナポレオンは復古王政に取って代わられ、
復古王政は7月王政によって倒された。

その7月王政の悩みが、復古王政が侵略を始めた北アフリカのアルジェリアの植民地化であった。
先住民が執拗に抵抗し、フランスの支配領域の拡大は遅々として進まなかった。
優秀なアラブの騎兵を前にして、フランス軍自慢の大砲は持ち運びに不便で、あまり役に立たなかった。


そこで7月王政は、かつてナポレオンが統治していた頃にハイチやスペインで功績をあげた将軍らを、アフリカ方面軍に派遣した。

彼らは、「郷に入れば郷に従え」と考え、アラブ人の戦闘方法をまねた。
村々を奇襲し、農作物を焼却し、樹木を切り倒し、建物を破壊し、女も子供も老人も虐殺するのである。

かくしてアフリカ方面軍の兵士らは、民間人と戦闘員の区別を無視して殺戮を続けた。
次第に、彼らは平気で民間人を殺せるようになっていった。


・パリで

1848年2月、革命が起きて、7月王政は倒され、第2共和政が樹立した。

同年6月、パリで社会主義者と労働者が蜂起した。

まさにこのとき、新政府が蜂起鎮圧の任務を命じたのが、アフリカ方面軍であった。

そう、アルジェリアにおける先住民との戦いで、「獰猛な習俗」を身につけたと恐れられた、アフリカ方面軍であった。
彼らがパリにやってきた。
指揮官のカヴェニャック(1802-1857)は戒厳令をしき、パリで、まるで植民地の総督のように、振舞った。

鎮圧作戦の結果、蜂起参加者3千から6千人が死傷し、1万5千人が逮捕されて軍法会議にかけられた。
有罪を宣告された者は、1850年1月24日の法律によってアルジェリアに移送されることになった。
政府から見れば、パリの労働者は、肌の色が白かろうが、フランス語をしゃべろうが、アラブ人と同じような「野蛮人」であり、アルジェリアがふさわしかった。


・転移する暴力

このように見てくると、ある種の暴力の転移が確認できる。
スペイン→アルジェリア→パリ。

その本質は民間人を恐怖によって統治することにあった。
人種差別はたいして重要ではなかった。
重要であったのは、戦闘員と非戦闘員の区別なく、敵を「野蛮人」とみなして、監視・処罰・支配することであった。

別言すれば、
この暴力の犠牲者は、共通の歴史を持つということでもある。

スペイン人、アラブ人、パリの労働者。
肌の色も、言語も、宗教も違う。
けれど、彼らはみな、同じ暴力の犠牲者なのである。

ヨーロッパと非ヨーロッパの対立を軸に話をすすめるポストコロニアリズムでは、このような暴力のブーメランを理解することはできない。



参考文献
西願広望「フランス七月王政期のアルジェリア植民地戦争をめぐる言説」『軍事史学』第56巻第2号(2020年)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?