見出し画像

今日の文章は終始怒りについて書こうと思う。
これまでも似た様な事は書いてきたが、改めて吐き出したい気分になった。

世の中に横行する"普通は"についてである。

"普通は"こんな事しませんよね?
"普通は"学校に通って就職するもんでしょ。
"普通は"ヒゲくらい剃ってきますよね?

例を挙げれば枚挙にいとまが無いので一旦切り上げる。
"普通は"の類義語には"常識的に考えて"とか"一般論で言えば"とかも当てはまるかな。
ニュアンスは伝わっただろうか。
別に共感を求めている訳ではないので、なんとなく伝われば構わない。

"普通は"に代表されるこうした言葉が気に食わない。
大概この様な言葉が使われるのは「"普通は"こうですけど、あなたはそうじゃありませんよね?」と普通からはみ出した事を指摘する瞬間である。
私の性格上その様な言葉を投げられる事が多い。
その度に思うのだ、"普通とは?"と。
一体どこでいつ何時何分地球が何回回った時にその普通は生まれたの?と。
(恐らく小学生ぶりにこのフレーズを使ったが、ここで言う地球の回転って自転なのだろうか公転なのだろうか…。)

あなたの普通と私の普通は違うという当たり前。
それでも世の中には普通があって当然であるという思い込み。

"普通は"で人を口撃する事は容易い。
"普通は"に続けて持論を語ればそれで終わりだから。
ズルい人々はわざと"普通は"という言葉を使う。
その言葉が相手を追い詰める為の一手になり易い事を知っているからだ。
例えば上司や学校の先生、親といった存在はよく"普通は"を使うのではないか。
何も悪意からこうした言葉使いになるだけでは無い。
良心から放たれる"普通は"も当然存在する。

しかしながらこの"普通は"というのは呪いの言葉の様に思うのだ。
心も身体ものびのびと生きる事を"普通は"という言葉がその人を縛り付けてある種の枠にはめようとする。

私は何度も何度もこの"普通は"話法を投げつけられてきた。
幼い頃はなんで自分の"普通"が捻じ曲げられようとされるのか困惑していた。
しかし、歳をとるにつれ相手はこちらをコントロールしたいだけなのだと気付いてからは相手の"普通は"の思惑を汲み取ってかわすことが出来るようになった。

ただ、社会に出てからはまた自分の"普通"が世の中から要請される"普通"とあまりにかけ離れていて、大きなジレンマに陥ってしまった。
これもうつ病の原因の一つなのだろう。

一般的な"普通に"前向きで向上心のある社会人になりきってみようと、いわゆる意識高い系の会社に就職した。
ところが仕事をしている間の息苦しさが尋常ではなかった。
大きな声でハキハキと話し、隙間時間を見つけてはスキルアップの為に勉強をする、どれも能動的ではないがその様な環境に試しにと身を置いた結果、あっという間に心が疲弊してしまった。
あと地味にスーツを着るのも辛かった。
マジでスーツに意味を感じない、だけど着ろと言われるから着る、それが"普通"だから。

コロナ禍の話で言うと在宅勤務が導入された時は不謹慎ながらちょっとだけワクワクした。
普通が変わっていく様を目の当たりにしたからだ。
そもそも毎日の通勤にも意味を感じなかったし、オンラインで代替可能な事は全てそうすればQOLだって上がっていくはずだろうと思っていた。
ところがコロナ禍も半年程経つと会社の上層部から出社を半ば強制される様になった。
"普通の人は"もう出社してますよ。在宅でいるのはあなただけです。まあ、強制ではないですけど。
と、強制されるのであった。
この辺りで心が折れた気がする。
些細なことかも知れないがあの時の自分は"普通は"口撃をモロに食らってしまった。

それと、話は変わるが"普通は"論法を使う人ほど"多様性"という言葉を多用する気がするのは私だけだろうか。
私には彼等から発せられる多様性という言葉が"普通は"に対するエクスキューズに思えてならない。
きっとどこかに後ろめたさや、論法の弱みに気付いているのだろう。
だからこそ「"普通は"〜しますけどね、ただ多様性の時代ですから最終的にはあなたが選んで下さい」と付け加える。
書いていて思ったが、そんなに難しい話でもないな、ただのズルい奴の話だこれ。

多様性という言葉を最近よく耳にする。
多様性というのはまさに"普通は"を打ち消す言葉であるはずなのに、何故だか"普通は"と多様性はセットで使われる事が多い。
結局のところまだ多様性の時代は訪れていないのであろう。
極端に言えば多様性の時代というのは少なくとも俺も息が吸いやすいはずだから(つい一人称が俺になってしまった)。

We(私たち)という言葉の解釈について触れたい。
あなたはWeという言葉からどの様なイメージを抱くだろうか。
大抵は人が複数人いる様だろう。
しかし、これを私は少しひっくり返したい。
Weというのを一人一人の集合体だと捉える。
こうして初めて多様性が成立するのではないだろうか。
どれだけの人数がいても1+1+1…の連続がWeなのである。
それは家族も、友達も、会社も、街も、国も、世界もだ。
あらゆるWeは1+1+1…の連続である、そう捉える事で多様性に近づく様に思うのだ。
もしWeが母数の大きな個体であればそれはもはや人類補完計画である。
1+1の連続というイメージが持てれば自然と一人一人が持つブレやズレが想起される。
私が思うにこの様な考え方の基に多様性への一歩が生まれるのだろう。
こうなれば"普通は"等とはとても言っていられない。

長い事書いているが何か言っている様で何も言っていない文章に思えてきた。
今ちょっと後悔している。

とにかく"普通は"とか"常識的に考えて"とかやめにしてみないか。
これらの言葉は暴力に近い。
話者の規定した普通に相手を無理矢理当てこもうとする効果があるからだ。
更に言えば"常識的に考えて"とか"一般論で言うと"とかって物言いは話者がそこに連なる論に対して責任を放棄している。
「私がどう思うかは別として"普通は"〜ですよね」と言うのは狡猾な発言に他ならない。

政治家とか結構言いがち。
政治家がこういう言い方を積極的にするもんだから、短絡的な大人達の中でまた"お上もこう言ってるし"と無責任の再生産が繰り返される。
端的に言ってカッコ悪い、普通に考えて。

ちょっと言いたい事が纏まらなくなってきた。
まとめて言うとこういう事です、が今日はが怠い。
ここまでもし読んでくれたのなら"普通は"について少し考えてみて頂けないだろうか。
俺はそれだけでちょっと生きやすくなるので、人助けだと思って一つお願いします。

今日はここまで。

Kanye West / Power

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?