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12歳で性被害に遭うー『SNS 少女たちの10日間』

※この記事には性犯罪被害(痴漢)についての実録的描写が含まれます。


『SNS 少女たちの10日間』


 先日、『SNS 少女たちの10日間』を観てきた。チェコのドキュメンタリー映画だ。成人女性の俳優3人が12歳という設定の偽のアカウントでSNS(※1)を利用し、子ども達の遭遇しうる性的被害を疑似体験する。その過程を克明に描いた作品だ。
 克明すぎるほどだった。どれほどぼかされても透けてみえるヤニ下がった表情で、男たちが少女役の3人を性的に眺め回す様、それだけで気分が悪い。送り付けられるポルノ動画の数々、カメラ越しに問答無用に見せつけられる自慰行為など、かなり覚悟をして観た方がいいと思う。
 自分たちは12歳であると繰り返し訴える彼女たちに、孫がいるような年齢の男性までが「気にしない」「問題ない」と罪悪感もない様子で裸体の写真をしつこく求め、ビデオの前で服を脱ぐよう指示する。

 映画館から帰った私はぼんやりと天井を眺めていた。
 12歳。12歳の自分は何を知り、何を知らず生きていたのだろう。
 突き刺さる事実がある。実のところ、初めて痴漢に遭ったのがちょうど小学校6年生、12歳ごろだ。ぼんやりした子どもだった。駅のホームで「セックスってなに!?」と大声で友人に聞いてしまったのが中学1年生のときだったから、その頃の性的なものに関する知識量は他よりも少なかったかもしれない。
 あの時まではスカートの丈が長いとか短いとか、生地の薄い服はよくないとか、気にしたこともなかった。大人の言う「はしたない」と言うのが、「ちゃんとしていない」という以上の意味を孕むことを知らなかった。異性から向けられる欲望がどんなものかもわからないまま、「女性として見られるということは嫌な目に遭うということで、けれどそれは大人の証なんだ」と思うようになった。映画の中で「こんな目に遭い続けていたら少女達の恋や愛に対する考え方がおかしくなってしまう」と言っていたキャストがいた。まさにその通りのことが起きていた。
 ふつふつと怒りが湧いてきた。何年前の出来事だろうと、これはまだ終わったことじゃない。今また形を変えて12歳の少女を苛んでいる。私の経験が、歪んだ価値観の残滓だけでは済まないことを突きつけられた今、自身の体験を言葉にすることにも、価値があるのではないか。体験したことのある人にしか伝えられないことがあるかもしれない。

 そんなわけで、以下は痴漢被害に遭った1人の女児の実録として読んでもらえたら嬉しい。少しでも性被害の体験を告白、告発することのハードルが下がっていけばと願うばかりである。



12歳で痴漢に遭う


 小学校6年生当時、私は大手進学塾に通っていた。目立つ色の通塾カバンを背負い、通路の真ん中よりは少し遠慮したぐらいの位置で、同じ塾の友達と4人で輪になっていた。
 真夏だった。夏期講習の帰りだったように思う。ラッシュ時間とはズレていて、それほど混んだ電車ではなかったはずだ。何を着ていたかもはっきりと覚えている。薄緑色のギンガムチェックにパイナップル柄、袖なしのリップル地のワンピース。上品なデザインを好む親の反対を押し切って自分で選んだお気に入りだった。サラッとした着心地で、肌にあたっても痒くならない。
 だから、足に何か当たったような感覚があったときは電車の中に虫が入ったんだと思った。スカートの中に入ったのかと会話の合間に手で払う。もう一度足に当たる。何かおかしいと思ったけれど、何となく触られているような気がしたけど、まさか、と思った。虫でしょ、と自分に言い聞かせるようにして友達と話を続けた。手で払った。少し止んだ。でもまた足に触れる感覚がある。スカートの凸凹の生地の感覚の裏側に、何かがある。それは人の指のような気がする。気がするけれど、まさかと言う気持ちと、どうしていいかわからないのと。徐々に確信に変わる。やっぱり触られている。
 スカートの端が気になるようなふりをしよう。それとなく、何となく。どんなやつか見てやろうと振り返った。
 若い男性だった。赤に近いような茶髪の、大学生か20代の野暮ったい感じもそれほどしないお兄さん。爽やかとまではいかないけれど、どこにでもいるような。
 普通じゃん。普通じゃん……
 その言葉だけを繰り返していた。イメージしてたような『気持ち悪いおじさん』じゃない。普通だった、変態みたいな顔とかじゃなかった。こんなの、絶対わからない。街中であっても、誰が『変態の人』なのかわからない。どうしよう……。
 もう振り返らなかった。友達と普通に会話することに全神経を使っていて、その後も痴漢に遭っていたかどうかは覚えていない。ただ体を固くして、何もないようにしていた。
 駅に着くと、父親が車で迎えに来ていた。たしか父親には言えずに車の中では黙りこくっていたように思う。家に着いた瞬間、一目散に母親の元に向かった。初めは何も言えず、何か言おうとして、しかし尋常でない様子の私を見かねた母親に促されて結局は起きたことを細切れに語った。堪えきれずに泣いて、泣き始めると止まらずにわんわん泣いた。母親も泣いていた。色んなことを言われた。全部は思い出せないけれど、慰める言葉とたしなめる言葉とが半々だったように思う。ひと通り泣き、泣き疲れた私に母親は泣き笑いの表情で「あなたも大人の女性になったということね」と言った。
 そして次の日には何もなかったかのように日常が始まった。私はワンピースをタンスの奥にしまって、二度と着なかった。

 私が初めて痴漢に遭ったときのことだ。



その後の痴漢被害


 「初めて痴漢に遭ったとき」というのは一度のことではなかったということで、特に中学時代は数限りなく遭遇した。おとなしい、地味な生徒を狙う傾向はあっても、性格の差に関係なく同級生たちもかなり被害に遭っていた。気づかずスカートを切られた友人もいたし、その場で捻り上げて警察に突き出した話も聞いた。けれど、ほとんどの人は黙っている。なぜなら、たとえ話題に出ても「また痴漢遭ったよ〜」「まじかぁ、いつもなんかしてる?」「足踏んでやった」「肘鉄食らわせた」ぐらいのノリだからだ。朝の満員電車で文庫本や漫画に没頭していた私は他の人よりもしかしたら頻度が多かったのかもしれないが、多い時で小テストぐらいの頻度だったように思う。
 特定の痴漢にターゲットにされて毎日のように被害に遭うようになり、電車の時間を変えたこともある。しばらくして電車の中でその痴漢の姿を見かけた時には、同じ制服を着た後輩らしき女子生徒の真後ろに立っていた。血の気が引いた。ああ、私が逃げたから今度はあの子が被害に遭ってるんだ。私が何も言わなかったから、あの痴漢は今でも同じことを繰り返してるんだ。もどかしさと自責感で吐きそうになりながら少し距離のある男の後頭部を睨みつけ、そして何もできなかった。噛んでいた唇の痛みまで思い出せても、ただ私は無力だ。

 あれから数年が経ち、性被害者を支援痴漢撲滅キャンペーンはある程度は功を奏してきているように見える(※2)。けれど私は知っている。痴漢に対して声をあげるのがいかに難しいか、肌感覚としてよく知っている。私の受けた被害は後輩へと移り、次の世代、またその次の世代へと連鎖していくだろう。もしかしたら電車の中からオンライン上へと場所を移して。
 数年前から#MeTooのタグがTwitterのトレンドを席巻して、錚々たる性被害の告白たちを前に圧倒された。どうしても「こんなことで声を上げるなんて恥ずかしい」という思いから逃れられなかった。
 映画を観た日、天井を見つめていた私はノートパソコンを開いた。誰かに働きかけるということは難しいけれど、自分自身が性被害を矮小化しないことならできる。まずはそこからだ。目を背けたい思いが募り、文章を打つ手は度々止まったけれど、書き上げられただけで十分かな、と今は自己満足に浸っている。


大人になにができる 


 もう一つできることは二次加害をしないということだと思うのだけれど、これも言うほど簡単なことではない。私たちは多かれ少なかれ“いいことすればいい結果が返ってくる、悪いことをすれば悪い結果になる”と言う『公正世界の信念』というものを持っていて、これがどんな時でも通用すると思ってしまう。
 子どものころ、周りの大人たちは危険な目にあわないようにという事ばかりを教えた。
「夜道は危険なので早く帰りましょう」「短いスカートは犯罪を誘発するのでダメ」「周りを見て歩かないから危険な目にあうんだ」
 初めて痴漢にあった日、母は言った。
「可哀想に、辛かったね。もうこの薄い生地のワンピースを着るのはやめようね」「これからは女性として気をつけなくてはダメよ」
 もちろん歴とした二次加害の発言の例だ。一方で『公正世界の信念』をもつ大人として、あるいは嫌なことが起きたことを認めたくないのも手伝って、子どもを更なる被害から守るために発された言葉でしょう。私は自分がうっかり二次加害をしてしまうということも怖いと思っている。
 自衛の手段を教えることも大事かもしれない。けれどそれ以上に、もし不幸にもつらいことが起きてしまった時に助けを求める方法を教えていかなくちゃならないんじゃないか。全国の小学校で避難訓練や交通事故防止キャンペーンのように、性被害や暴力被害を含む虐待に遭ったときのトレーニングをしたっていいと思う。それはきっと大人にとっても大切な経験だ。助けを求められる方にだって知識と瞬発力が求められるからだ。
 怖い目にあうのは危険を避けないせいではない。辛い時に助けを求められないのは臆病なのではない。たとえ親の言いつけを守らなくても、法律を破っていたとしても、助けを求めてくれさえすれば大人が助けてくれる社会だと知ってほしい。
 

 ニュースサイトによれば、監督たちは現在15歳未満のチェコの子どもたちに見せられるような教育バージョンを作っているらしい。
 個人的に、ドキュメンタリーは疑問を投げかけ考えさせるところで終わっていいと思っている。けれどもし教育用に作り直すのであれば、「SNSは危険なのでやめましょう」ではなく、「もし危険な目にあったときは周りの大人や警察が必ず受け入れて、安全を確保してくれる」ことを強調したものだといい。


※1 どうやら映画の中で主に利用したのはLide.czという過去に存在した出会い系サイトであったよう。年齢制限を設けていなかったものか?規約変更のため下火になり、今は閉鎖しているよう
 
※2 幸いなことに、痴漢の検挙数は平成 18年以降徐々に減少傾向にあるようだ。犯罪白書よりデータを拝借してグラフ化してみた。この数倍の暗数が存在することは想像に難くない。ちなみに、衣服の上から触れた場合は迷惑防止条例の適応、衣服の下から触れた場合は強制わいせつの適応になるそうだ。「強制わいせつ」か「迷惑行為」かがそんな布1枚で変わってしまうのかというのも甚だ疑問である。

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