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進行形JR乗りつぶし日記(少しのオマージュ)#4~北海道5日旅:1日目(2)【旭川→稚内】

 旭川を出てしばらくは郊外の街並みが続く。新旭川の車両基地、かつて某CMで一躍有名になった比布駅と順調に通過して、9時29分和寒着。調べてみると『ワッサムとはアイヌ語の「ワットサム」から転訛したもので「ニレの木の傍ら」の意味』とのことだが、元の意味を離れてこの漢字を充てた先達のセンスに脱帽する。ちなみに先ほど通過した比布は『「沼の多いところ」あるいは「石の多いところ」』だそうである。
 車窓から見える景色からは次第に人家も少なくなっていき、東六線(廃駅)、風連といったこれもまた絶妙な名称の駅を通過して、列車は9時54分に名寄に着いた。

 名寄は今も道北の中核都市ではあるが、昔は幌加内地方を経由して深川まで伸びる深名線、オホーツク海側の紋別に向かう名寄本線が分岐する重要地点だった。朱鞠内付近を中心に豪雪路線として有名だった深名線跡には少々心を揺さぶられるが、勿論今の車窓からはやけに広い名寄駅の構内が見えるだけである。またゆっくり廃線跡探訪でもと思うが、夏に来ても朱鞠内の真髄は分からないし、冬だと肝心の廃線跡が何も見れないので、結局来ないんだろうなぁと思ってしまう。

 名寄に2分停車の後、我が『宗谷』は再び北に走り出した。秘境駅ファンに有名だった北星駅の跡を撮影しようとしたが、一瞬で通り過ぎて何も分からなかった。JR北海道はどんどん廃駅を進めていて、このままでは特急停車駅以外は全ての駅が消滅し、今の特急が鈍行になる、といったことも存外本当に有り得そうな勢いである。単なるノスタルジーでしかも安いフリー切符で乗りに来る鉄道ファンには何もいう資格はないが。
 名寄の次は美深に停車する。ここは国鉄末期に日本一の赤字線として一躍脚光を浴びた旧美幸線の始発だったところで、「美」は美深、「幸」はオホーツク海側の枝幸、つまり名寄地域からからオホーツク海側まで抜けるという壮大な構想を示す路線名だが、現実には3割ほど進んだ仁宇布で終わってしまい、それもあっさり廃線となった。仁宇布には廃線跡を利用したトロッコがあるらしいので、再訪せねばならんと思うが、その手段がクルマしかないのは何とも皮肉である。

 すっかり廃線廃駅巡り紀行のようになってきたが、10時42分に到着した音威子府(オ・トイネ・プ~「河口の濁っている川」の意)はその最たるものであろう。稚内を東側から攻める旧天北線と全国に勇名を轟かせた音威子府駅そばという2つの大きな遺構がある。天北線はともかく、そばの方はもっと早く訪れていればよかったのだが、店のご主人が一昨年に亡くなられて閉店してしまい、今は何もない。あの黒いそばが街の名物であることは変わりないので他のそば屋に行きたいが、次の列車は15時半で、例によって下車不可なのでどうしようもない。ここもまたクルマで来れる日があればいいのだがと切に思う。

 初めて来たのに追憶というのもおかしいが、現役の『宗谷』はそんな懐古気分に浸っている私を今に引き戻す。地図を見ると音威子府から幌延までは寄り添う天塩川の景色が見どころのようである。本当は先輩の天塩川に鉄道が後からお邪魔しているのであって、先輩に敬意を表しているからなのか、二人は微妙に付かず離れずで、一生懸命にカメラを構えても、すぐに山に入ったり木が遮ったりという状況が続く。ようやく次の停車駅天塩中川を過ぎたあたりから、北海道によく見られる大きな平べったい河岸を擁する天塩川の絶景が広がってきて、まさに宗谷本線の愁眉であると感じる。
 11時46分に幌延着。既に札幌から4時間余り走り続けているが稚内まではまだ1時間も要する。幌延からは旧羽幌線が南に伸びていたのだが、廃線のことはしばらく横に置いて車窓に集中することとする。しばらくして視界に入ってきた草原や湿地や牛舎等が混在したサロベツ原野は、北海道でしか見れないであろう荒涼とも望洋ともつかない素晴らしい風景だったが、空模様が薄曇りだったので海越しの利尻富士はあまりはっきり見えず、そこは少し残念だった。

 ゴールも近づいてきた『宗谷』は豊富に停車した後、いくつかの無人駅や名駅舎として有名な抜海駅を急ぎ足で駆け抜けて稚内市内に入っていく。旧天北線の合流地点だった南稚内を発車すると所要4分で最北の駅稚内に到着した。
 こうして来てみると飛行機やバスではなく、列車で稚内まで来たのはやはり良かったと感じる。飛行機でワープしたり、バスで寝てる間に着いてしまうと旅情が全くない。私は最北の駅名票を見上げながら、一時はそのような計画を企画したことを稚内に心の中で詫びた。

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