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天上の回廊 第十二話

翔太は茂夫の次の台詞を唾を飲んで待った。茂夫は中々声を発しなかった。暫し沈黙が続いていた。そして思いもしない言葉が茂夫の口から出た。
「お前、女おるやろ?」
翔太はその言葉に杭で胸を打たれた様な衝撃を覚えた。彼が呆然としていると、茂夫は続けた。
「知っとるんやで。ちゃんと女がおるのにひとの女に手を出して…はるかを守るやと?可哀想みたいに言うといて、はるかを一番裏切ってるのはお前や」
翔太は口を開いた。
「彼女とはもう何ヶ月も音信不通です。もう別れたと私は思ってます」
「ふん!お前が思っとるだけやろ…可哀想にのぉ…真希ちゃん、なあ」
翔太は更に驚いた。
「な、なんで真希の名前を…」
「ハハハ、わしを舐めたらあかんで。なあんでもお見通しや」
彼は狼狽した。自分でもみっともないと思ったが、発汗や震えはどうにも出来なかった。

翔太には交際している女がいた。藤村真希といって、埼玉県内の女子大に通う三回生である。大分、年の離れた彼女だった。しかし、確かにここ数ヶ月は連絡も取っていなかった。突然音信が途絶え、翔太が最後にLINEしたときも既読は付かなかった。従って彼はもう別れたものと思っていたのである。

しかし、茂夫は何故そんなことまで知っているんだろうか。何か闇のルートを使って調べさせたに違いない、と彼は思った。

茂夫は、低い声で笑いながら、
「はるかに聞こえてるかな〜」と言った。翔太ははるかの方を見た。
はるかはやや俯いていた。彼は少なからず心配になって、はるかの正面を向いた。
「はるか」
「うん」
「言った通りだ、信じてくれ」
「…うん」
彼女はよくやる様に無理矢理口角を上げてみせた。翔太はやるせなくて、頭上の空を見上げた。もう陽が沈む。茂夫の姿は殆ど見えなくなった。声が聞こえる。
「お〜お〜、色男は辛いのお…。はるかちゃんも気の毒になあ…フフフ」
「黙れ!何をしたいんだ!」
翔太は激しい怒りを感じて、自分でも驚くような大声を出した。烏が数羽、北の方角に塊になって飛んで行った。北の空は僅かに仄明るく、赤みを帯びた雲がゆっくりと移動していた。
「フフ、逆ギレか。両方の女にいい事言うとるんやろ、何も知らん、うちのはるかを騙しおって…ふざけるのも大概にせいや!!」
茂夫は翔太を上回る強烈な怒声を浴びせ、翔太は一瞬、言葉が出なくなった。
気が付くと周囲の客達が此方に視線を注いでいる。翔太は絞り出すような声で言った。 
「貴方は何をしようというんですか?何が望みなんですか?」
茂夫はまあ暫く黙してそのあと、
「まあ、やっぱり今は言わんとこう…じきにわかる」
「え?」
「楽しみに待っとれ」
「どういうことだ」
「じゃあな、フフフフフ…」
「ま、待て、ちょっと、切るな!」
翔太は叫んだが電話は切れてしまった。

翔太ははるかを見た。二人はどちらからともなく互いに抱き合った。空気は冷たく、空はすっかり漆黒に包まれていた。荒い息遣いに翔太は強い焦燥感と興奮を自覚していた。
「黙っててごめんな、はるか、本当に別れたと思ってるんだ」
「いいよ、いいよ」
はるかは、なだめるように言った。

「もう帰ろ」
彼女はにこっと笑って言った。
「そうだな、帰るか…」
翔太ははるかに心から感謝していると同時に、とても申し訳ない気持ちで一杯だった。いくら別れたも同然とは言え、一応言っておくべきだったのかも知れないと思い、強く後悔していた。

二人は再び夜の街を歩いた。広い大海原で高波に揉まれる小さな木舟の様に二人は頼り無く彷徨っていた。この先どうなるのか、何が自分達を待っているのか、全く予想も付かず、不安と混乱、そして僅かな希望が今の彼らの全てだった。しかし、早足で歩くうちに翔太は、覚悟を決めなければ、と思った。自分しか今のはるかを守れる人間はいない。彼女は自分だけを心から頼りにしている。こんな健気で、こんな心細い思いをしている弱い立場の女性を守れずに男と言えるだろうか。自分はどうなってもいい、とにかくはるかを守る。それが自分の道だ。

翔太ははるかの肩を引き寄せ、大きな丸い瞳を覗き込んだ。彼女は少し驚いた。
「どうしたの?」
「はるか、オレは自分が強い人間かはやっぱりわからない。その答えは自分で導き出すものだ。自分の行動で答えは決まると思う。オレははるかを命を賭けて守るよ」
翔太はしっかりとした口調で言った。はるかは表情を緩めて、嬉しそうに言った。
「ありがとう、翔太。愛してる」

二人は少し歩幅を狭めて、眩いショーウィンドウや、華やかなストリートパフォーマンスや、賑わうイベントなどを横目に見つつ、ネオン燦めく夜の街を楽しんだ。月は天上にあって優しく二人を照らしていた。

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