ネクロフォビアは病気か?正常か?
おはようございます。
#KENMAYA です。
本日は少し哲学的及び少しホラー、メンタル要素を含むお話になります。
苦手な方は閲覧注意です。
ネクロフォビアとは、
死んだもの(死体、亡骸、白骨化した遺体など)及び死に関連するものに非合理的な恐怖を抱く特定の恐怖症のことです。
あらゆる種類の感情で、死への執着は魅力と客観化の両方で明らかになる、とされていて、文化的な意味では、死体恐怖症は文化的集団による死への恐怖、例えば死者の霊が化けて出て生者を悩ませるという信念を意味するために使用されることもあります。
死んだ動物との遭遇や、愛する人や友人の葬式のように何かが恐怖の引き金となっている時もこの感覚を経験するかもしれません。
死を目の当たりにしたり、または子供の頃、親しい人の葬式への出席がトラウマになりこの恐怖症が発達した可能性がある、とされています。
この逆がネクロフィリア。死体に性的興奮を感じる異常性欲であり、
こちらは通常、異常性癖または性的倒錯に分類されます。
しかし、本来は自己や他人の「死」への執着、もしくは、愛好家であり、
ネクロフォビアの反意語です。
本来生命体は「死」への恐怖を常に抱いているものです。
なぜならば、「生」を維持することが「生命体」の根源たる存在価値であり、「生きるために生きている」からです。
しかし、現代において自ら「死」を選ぶ人が増えつつあります。
これには社会的断絶、経済的困窮、孤立感や孤独感など、理由は人によって様々ですが、全て「後天的なもの」と言い換えることができます。
生まれてすぐの赤子が自ら「死」を選ぶことはありません。
つまり人間として成長していく過程において、
自身が社会や他人にとってに必要のない存在である、と悲観し、思いこんでしまうことによって自ら命を断ってしまうのです。
これは他の生命体には見られない現象であり、自己犠牲により仲間を守ることはあっても、自ら率先して死を選ぶ生命体は人間だけです。
これは人間が、社会的に高度に進化した生命体である証左であるのと同時に、本来生命体としての「生への執着」を断ってしまう精神的退化とも呼べるものです。
では、ネクロフォビアは「恐怖症」として病気である、と言えるのか。
わたしは、「死への恐怖」は生命体としては正常であると考えています。
ですが、「死」というものを身近に感じながら日々生活する人は少数派です。言い換えると、「自分が今日死ぬかもしれない」と考えながら生きている人は少ないはずです。
その考えはあまりにも不合理であり、余計な思考であると自身で分かっているからです。
わたしはかつて毎日「死にたい」と思っていました。
自己存在を否定され(たように感じ)、生きている意味を感じられない。
既に自分は死んでいるも同然。毎日が楽しいと思うことはなく、
世界がモヤに覆われたように色褪せ、親族や家族からも疎まれているのではないか、と思いこんでいました。
しかし、なぜか生き永らえています。
今でも何をやっても楽しくない、と思うにも関わらず、です。
うつ病と診断され処方された抗うつ剤の効果も多少はあるとは思いますが、
死を踏みとどまった。それには大きな理由がいくつかあります。
まず、「家族の存在」です。
わたしが死ぬことによって、わたしの「死への欲求」は満たされても、
わたしの死によって、家族に与える喪失感や「死への恐怖」まではコントロールできないと分かったからです。
次に、自身が否定されると感じる人との接触を絶ちました。
話をすることに苛立ちを感じる、
場を共にするだけで違和感や恐怖を感じる、
こういった不快感を隠すことが狂気と紙一重に感じ始めたため、
一切の接触を断つように心がけました。
例えそれが親兄弟であろうと、一瞬たりとも不快感や違和感を感じたら、
極力接することがないように行動しています。
そして、「書くこと」です。
特にわたし自身、秀でた文才があるわけではないですが、
ひたすらに日々Twitterやnoteを通じてわたしが今感じていること、
思うこと、考え方、を極力他者に伝わるように書いています。
これは自分が思ったよりも「死への恐怖」を再認識する上で、とても重要なポイントでした。
なぜ「書くこと」で「死への恐怖」を感じたか。
その理由は自分の思考が「死と紙一重」な状態であったからこそ、
書く内容が常に「遺書」であり、わたしという生命体の「断末魔」であったからです。
つまり、「書き続けなければ自己の存在意義を失う」と仮定し、
ある程度自分の生活を節制することで「書くことは楽しい」と感じることができたのです。
ここで、疑問がひとつ浮かび上がります。
「楽しい」のであれば、もはや希死念慮は感じないのではないか?
という点です。
これについては、未だわたし自身が実験体の身でもあるので、
解答を持ち合わせていません。
ただ、今ひとつだけ言えることは自ら死を選ぶ前に、
自分という人間が存在していた証を憎悪でも、快楽でも、
何らかの形で表現し残していくことが何よりも大切であるということ。
死に急ぐことはなくとも、生命はいつか死に至ります。
それまでに無駄と断ずることはなく、何かに自分の存在を刻むことに注力してみるのもいいのではないでしょうか。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
Twitter、YouTubeもやってますので、よろしくお願い致します。
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