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たとえば、100年後

今の時代には、今の時代の、
100年前には100年前の時代の流れというものがあって、
人々は、その時代その時代の波の中で生きている。

時代は、刻々と移り変わっているということ。

3年前には当たり前だったことが、
3年後にはすっかり消えてなくなってるなんてことは、
今の時代、珍しいことじゃない。

そういう時代性が極端に出るのが、戦争の時。
平常時にはあり得ないような設定変更がなされたり、
残虐非道なことが普通に行われたりする。

戦争を題材にした物語を小さい頃にドラマで見たり、
本で読んだりした時に、いつも思っていたことがある。

物語の中では、戦時のあり得ない命令に反対して、
自分の意志を貫いた人みたいなのが出てきたりするわけだけど、
もし、私がその時代を生きていたら、
その人と同じように、判断を間違わずにいられただろうか?
その時々の善悪だけで判断せずに、広い視野を持って行動できただろうか? と。

つい、そういうことを考えてしまう。

だから、時代の流れに乗ることに、リスクを感じすぎる傾向があるのかなあと思う。
そういうわけで、いまだにスマホを持っていなかったりするのだけど笑、
それも、今の時代の空気だけに惑わされない、ということの重さを感じすぎるほど感じてしまっているからかもしれない。

2012年に作られた『ハンナ・アーレント』という映画があって、
その上映会の招待券をもらったので、確か、2015年頃に見たのだけれど、
映画の最後のほうで描かれるのは、ヒトラーの命令で、ユダヤ人大虐殺を実行に移したナチス戦犯のアイヒマンという人物の分析。

何百万のユダヤ人を強制収容所に移送するのに指揮的役割を担ったのだから、ものすごく極悪非道な人かと思ったら、彼はごくごく平凡な人物に過ぎなかった。
アイヒマンは、極めて官僚的な、凡庸な人間だった。

そのことをよく物語っているのが、裁判での彼の一言。

「命令に従っただけです」

彼は何も考えず、ただただ、ユダヤ人大虐殺を命令されるがままに実行しただけ。
彼が20世紀で最悪の犯罪者になったのは、彼が思考不能だったから。
アーレントが「悪の凡庸さ」という言葉で主張するのは、
そういう何も考えない、ごくごく平凡な人間が行う悪のこと。

そして、当時の経験とも相まってか、この映画のラストの講義シーンで泣いた記憶があるのだけれど笑、私が思ってしまうのは、もし、私がアイヒマンの立場だったら、アイヒマンのように絶対にならなかったと、言い切れるだろうか、ということ。

その時代の当たり前に流されることで、
知らず知らずのうちに悪に加担していないかということ。

学部時代、2000年以上前の古代ギリシャのことを勉強していたのは、
今思えば、理由はいろいろあっただろうとは思うのだけれど、
1つには、今でもこの世に残っている、2000年以上も前の書物には、
「何かがある」と思ったからじゃないかと思う。
今の時代からは学べない「何か」。

1年後には、この世には存在していなかったかのようになってしまう書物とは違って、はるか昔のものが今でも残っているということは、
恐らく、そこに時代を超える大切な何かがあるから。

私は、その時代の思考に囚われない人を目指してきたんだろうなあと思うけど、だから、何かを書くにしても、時代を超えられるような何かが書けたらなあと、つい思ってしまう。

今から100年後、1人でも読んでくれる人がいるような文章を。

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