お散歩コミュニケーション
「散歩行こうか」
いま考えると、それが父の息抜きをしたい時の言葉だったのだと思う。会社員ではなく、自宅が仕事場だった父は、ほぼ毎日家の中で仕事をしていた。朝ごはんを食べて、仕事部屋で仕事をして、お昼ご飯を食べて夕方まで仕事をする。私や弟たちが小さい頃は、その後一緒にお風呂に入って、晩御飯を食べて寝る。だいたいそんな感じの毎日。
「散歩行こうか」
その言葉が合図となって、気乗りがしなくてもみんなで急いで支度をして出かけた。公園まで歩いて、公園の中を歩いて、そのまま美味しいアイスクリーム屋さんに行って、翌朝のパンを買って帰る。そんなお散歩。毎回結構歩いたと思う。気乗りがしないまま出かけたとしても、帰ってくると「やっぱりアイスクリームはあのお店が美味しいね〜」と話をしながらお風呂に入っていた。
私も弟たちも大きくなって、いつの日からかみんなでお散歩に行くことはなくなった。私自身も、大学生になり、社会人になり、一人暮らしを始めてからは、父とはもちろんのこと、自分自身でお散歩に行くことは殆どなかった。
30代半ばだっただろうか。仕事の忙しさと責任の重圧、そして仕事関係の夜の宴会で身体も気持ちも疲れ切っていた時、不調で倒れてしばらく会社をお休みすることになった。病院の先生には「安静にしてと言っても運動をしないのはまずいから、お散歩ぐらいは行ってくださいね」と言われ、それまで時間に追われながら愛犬の運動のためだけに続けていたお散歩を、毎日時間をかけてのんびりと歩くお散歩に変えた。
我が家には、4頭のミニチュアダックスがいる。母親犬とその子供たちなので、大変仲が良くいつも一緒にくっついている。それだからこそ、4頭一緒にお出かけをすると楽しすぎて、興奮が高まりうるさくなってしまう。のんびりお散歩するにも周りに気を使うのは嫌なので、時間もあることだからと思い、車で人のあまりいない海辺の広い公園に行って、4頭を連れて1時間以上のお散歩をするようになった。
海風を感じて、季節によっては花の香りを感じて、たまにバッグに忍ばせていったバナナをみんなで座って芝生の上で食べて、家に帰ってきたらみんなの足を洗う。その時思い出したのが、小さい頃の父とのお散歩。家族みんなで歩いて、公園の芝生でおやつを食べて、帰ったらみんなでお風呂に入る。
愛犬と歩いている間は、今日は風が強いねぇ、花がきれいだねぇ、雨が降ってきそうだから急ごうか、なんて話しかけながら歩く。周りから見たらただの変な人だろうが、私にとっては愛犬たちとのコミュニケーションの時間。
父は、口数の少ない人だった。数年前に他界したが、晩年は昔と変わってよく話をするようになったと思う。多分、お散歩に行ってみんなで一緒に歩く時間は、口数の少ない若い頃の父にとっては子供たちとのコミュニケーションの時間だったんだろうな、と思うようになった。
気乗りがしない中で行くお散歩は面倒で、はぁ、なんで行かなきゃいけないんだろう、と思っていた。でも行ってしまえば楽しいし、今考えると足腰が丈夫なのもあのお散歩のおかげだと思っている。いま一緒に暮らしている愛犬たちも同じ。「お散歩行くよー」と言うと、せっかくのんびりしているのに面倒だなぁという顔をする。洋服を着せる時も気乗りしない様子。でも、一旦外に出ると楽しそうに歩く。そして、母親犬を筆頭に体力はあるし、病気ひとつしない健康家族だ。
「散歩行こうか」と子供たちに呼びかける父。
「お散歩行くよー」と愛犬たちに呼びかける私。
未婚で子供のいない私にとって、愛犬たちは家族であり、子供と同じである。考えてみると、父と同じことを子供たちにしている自分がいる。
一昨年、私は会社員を辞めて自分の事業を始めたのだが、それも含めてなんだかんだ言って私は父に似てるんだろうな、と自覚するようになった。頑固で面倒臭い人間であるところもそっくりである。父に似ていることはわかっていたが、子供たちにやっていることも同じ。場所も変わって状況も違うが、お散歩をコミュニケーションの場にしている。
あの時、父が散歩に行くと言った時に気乗りしない顔をしなければよかったなぁとか、大きくなっても父とお散歩に行けばよかったなぁと思ってももう遅いが、父娘なんてそんなもんなんだろうなぁと客観的に考えたりもする。
散歩用の洋服を愛犬たちに着せながら、「今日はいい天気だよー。お散歩行ったら気持ちいいよー」と話しかけている私を、父はどこかで見ているだろうか。脈々とお散歩コミュニケーションの血が引き継がれているのを見て、きっと父は何も言わずに天国でニコニコしているだろう。そう思いながら愛犬とのお散歩を日々楽しんでいる。
(小学校の同窓会冊子に寄稿した文章を掲載しました)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?