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青春とはなんだ? ―高校編

(前回のつづき)

中高生時代の 1 年はかなりの違いである。
1 年上の先輩が自分たちとは比べものにならないくらいの大人だと感じたものだ。

中学時代は特に何かが秀でていたわけでもなく、樫の樹の下に大量に落ちているドングリの中の一つとしてごく凡庸な学校生活だった。
2 年の時に健康優良児で表彰されたことはあるので、学習でも運動でも中の上くらいだったのだろう。


当時は高校入試に学校郡制度というのがあった。
都立高校は複数の高校が地域別に郡を構成していて、入試志願者は自分の成績や通学にかかる時間などを考慮して自分が望む高校の入っている学校郡を志願するのである。

私は、自宅が調布市だったので東京都下西部の学校郡を選んで入試に臨んだ。
私の場合は、学校郡が 3 つの高校で指定されていた。
だから合格しても、必ずしも自分が行きたい高校に行けるわけではなく、合格通知の際に 3 つの内のいずれかが指定されるというわけだ。

幸い、この 3 校の中でも家からは比較的一番行きやすい高校に指定された。

ただ行きやすいといっても京王線の最寄り駅からおよそ 40 分、そこからはバスも出ているが、歩けば 25 分ほどかかるかなり辺鄙な場所に私の高校はあった。
多摩川の支流のほとりにある新設校である。

ガッカリなのは制服がいわゆる学ランではなく、地味なグレーの背広だったことだ。

小学校時代は「少年マガジン」と「少年サンデー」という 2 つの漫画雑誌が主流だった。女子たちには「マーガレット」と「少女フレンド」というのがあったと思う。
それが中学時代には「少年ジャンプ」に人気が移行していた。

たぶん男子なら誰もがこんなキャラクターに憧れるのだろうが、私たちは「少年ジャンプ」に連載されていた『男一匹ガキ大将』の主人公・万吉の大ファンで、毎週たしか金曜日だったか、発売日を待ち焦がれていたものだった。

なので、ゆくゆくは高校で襟の高い学ランを着たいものだと密かに思っていたので、このダサいグレーの背広には少なからず失望した。

まあ気を撮り直そう。サッカー部はある。
高校で何よりもやりたかったサッカーができる。


ちなみに、この高校も出来たばかりということだったが、私は小学校はそれまでずっと通っていた丘の上の小学校から転校した先の新設小学校の記念すべき第 1 回卒業生、中学校でも第 4 回卒業生、そして高校でも第 4 回卒業生だった。

私たちの世代はいわゆる団塊の世代なので、学年が 8 クラスもあった。
しかも 1 クラス 48 人構成なので新 1 年生だけで 400 人近い新人数がいた。
この数にはとにかく圧倒された。

しかも、どの顔を見ても皆デキそうなツラ構えをしていた。
無論、常にごく少数ではあるが落ちこぼれ候補生のような者たちもいたが、根からの小心者である私としては、ある種のカルチャーショックで早くも劣等感に苛まれていた。

待望のサッカー部にも入部し、こうして高校生活はつつがなく始まる。


1 学年度はさほどの問題もなく、大した事件を起こすこともなく平穏無事に過ぎた。

無論、部活では 1 年生は当たり前のようにグランドを走らされ、腹筋や腕立て伏せなどの基礎訓練に明け暮れる毎日だった。
いま思い出してもタイムトリップして、アラブの商人の一団がラクダの背に乗って蜃気楼の中をユラユラと進む中世の砂漠の世界に行ってしまいそうになる。
夏練は辛かった。特にあのクソ暑い中の練習で水も飲めなかったのは地獄だった。
高校の部活でも中学のときと変わらず練習中は飲水が禁じられていたからである。

しかも夏休み中なので練習は朝から始まり、夕方日の暮れる頃までの長時間だ。
容赦なく頭上から照りつけるお日様を、「太陽に吠えろ」状態になったわれわれ 1 年生は、その時ばかりは一致団結ひとつ思いで呪ったものだ。
お陰で真っ黒クロスケに焦げあがった私たちは、昼休みになると、近所の雑貨屋さんに直行した。命からがらの飲水タイムである。

その頃の人気ドリンクはコーラで、コカコーラ、ペプシコーラともにホームサイズの 1 リットル瓶を出した頃だったので、私たちはまずはともあれ店の冷蔵庫からホームサイズを引っ張り出す。

レギュラーサイズの小瓶などでは乾きはおさまらない。息もつかず、ほとんど一気に飲み干す。

昼メシなど後回しで、とにかく水分を補給する。
その雑貨店にはチェリオやミリンダも売っていたが量は変わらなくても値段が安いので大抵はチェリオを買った。グレープ味とオレンジ味があって、その二つが人気を二分していた。

若い成長期の身体のためには、砂糖たっぷりの炭酸飲料をガブ飲みするよりは練習中にこまめに飲水タイムをとる方がはるかに良かっただろうに。 


私たち 1 年生がボールを蹴らせてもらえるようになったのは、厳しい夏練がやっと終わった初秋の頃だったように思う。

ボールにさえ触れられれば「西東京のジョージ・ベスト」( 自称 ) はまるで水を得た魚の如くすぐさま天性の才能を発揮した。

インサイドキックでのパスにしてもインステップでのシュートにしても、二、三年生が「コイツ、天才じゃね」とつぶやくほどの正確さで相手に渡し、またゴールネットを揺らした。コーナーフラッグからだって、5 本蹴れば 4 本ゴールに入れることができた。

こんなことを言うと、ウチの子供たちはフンフンと一応は笑みを口もとに浮かべるが、心の鏡とされる目はさすがで、「自画自賛だろ」との心の思いを正直に映し出している。


順風満帆と思われた学校生活に波風がたち始めたのは高 2 になってからだった。

それまでは真面目に授業を受け、放課後も部活に励んでいた元健康優良児にも試練と誘惑がたびたび訪れてくるようになった。

そのきっかけとなったのは新学年時のクラス替えだった。
手持ちのカードが総とっ替えになったようなもので、まさに神様の絶妙なる采配だった。
新たに編成された 2 年 7 組に、その後ともに悪さをするようになる「仲間たち」が集合したのだから。

それまでは廊下で顔を合わせる程度で、名前くらいしか知らなかった連中がひとつの学級に集まった。
もちろん最初から意気投合したわけではないが、成分の異なる物質が試験管の中で混ぜ合わされ攪拌されて突如まったく想定外の化学反応を起こすことがあるように、一人ひとりが内に秘めていた要素や才能が互いの刺激を受けて反応を始めたのだ。


タバコを吸い始めたのは高校 2 年生だったこの頃で、ショートホープを好んで吸っていた。ショートホープは、ショートピースと並んでパッケージのデザインが渋かった。

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吸い終わると箱の両脇を谷折りにして内箱をはめ込みタイル状にする。
それを幾つも使い壁紙にして部屋を飾っていたものだった。
あの小型の白いホープの箱を胸ポケットからさっと取り出し、少し太めでやや短めの煙草の茶色のフィルターを口にくわえるのが実にクールだった。

当時人気ナンバー 1 だったハイライトは何故かあまり好きではなかった。
ショートホープ一筋の私も、洋モクのラークを先輩から吸わせてもらった時は、活性炭によるあの画期的な味に「さすがアメリカ」と感動したものである。

その後、日本専売公社もセブンスターを発売することでアメリカの侵攻から日本の煙草市場を必死で守ろうとした。


ちなみに私の喫煙生活はわずか 3 年間の短命だった。
19 歳で禁煙し、しかも一発で禁煙に成功してしまったからである。

1 日に 4 ~ 50 本は吸っていたので、ある意味、気が抜けるくらいに簡単だった。

多くの人が肺がんで亡くなる昨今、自らの健康を考えると、それは私の人生で下したあまり多いとは言えない正しい決断だったのだろう。
この禁煙にも面白い裏話があるのだが、それはまた別の機会に改めて書こうと思う。


高校 2 年のこの 1 年間はまさに初体験目白押しの年だった。
この頃は当然のことながら高校での授業を中心に生活が回転する。

朝、家を出て1 日の授業を受け、部活を終えてから帰宅すると、あとは夕飯を食い、風呂に入ったらもうそれで終わりで、また翌日の朝、ほぼ同様のことを繰り返す毎日である。

普通に真面目に学校に通っていてはやりたいことの半分もできない、と考え始めたのもこの頃である。
なにせ学校に束縛されている時間があまりにも長過ぎる。

そこで私たちは考えた。
1 日は 24 時間と昔から決まっているのだから、その限定された範囲内で時間を創り出さなければ高校生活は謳歌できない。かといって、フツーにフケたらすぐに教師にバレてしまうし、そうなると親にも連絡が行く。

さして豊かとはいえない知恵を寄せ合い絞り合い、私たちが達した結論は、1 日に 24 時間しかなく、その 24 時間の大半が授業や部活で費やされているのであれば、そこには引き算しか無いのだというものだった。


たちがは良い生徒然で「行ってきます」と家を出る。そのまま普通に学校へ行く。

まずホームルームがあり担任が出欠をとるので、名前を呼ばれたら元気良く「はい」と答える。
これで担任の出席簿にはスズキ君「出」となる。

あとは授業ごとに手法が異なる。
出欠をとる際に一人ひとり顔を見ていわゆる目視をする厄介な先生もいたので、私たちの一日の行動は大方その日の時間割で決まる。

例えば数学の先生がそんな几帳面な先生だったので、数学が その日の 2 時間目にあるなら、ホームルーム直後にフケることはせず、数学の時間まで待つ。
そして先生による目視の出欠確認のあとでチャンスを窺う。
先生が板書している間とか、自分の資料を見ているような時にそっと教室の後ろまで這って行き音を立てずに静かに戸を開けて脱走するわけである。

目視で出欠確認しない先生であれば誰かに「代返」を頼む。
脱走後のことなので先生が「スズキ君」と呼んだら誰かが代わりに「はい」と答えてくれるのである。

私たちが自由に活動できるよう彼らもまた私たちのためにリスクを負ってくれるのだから、昼ごはんのパンとか、タバコ 1 箱とかの報酬を支払うことにはやぶさかではない。

こうした段取りを「仲間全員」がそれぞれにやるのだが、なにせ同じクラスなので、いくら多勢 50 名の大クラスとはいえ、二つ、三つ空席ができれば発覚の恐れも当然増えるわけだが、先生の大半はそうしたことをわざわざ担任や教頭などに報告するようなことはなかった。感謝。


で、こうして学校からフケたあと何をしていたのか。
まずは金策に走る。

学生の身分ゆえ金欠問題は慢性的だったので一日を有意義に過ごすためには何よりもまず優先的かつ迅速に対処しなければならなかった。
何をするにしても金が要る。

だがその点、私たちのダサい制服が役に立った。
学生鞄がなければ、見方によっては若いサラリーマンに見えなくもない。

そこで全員の鞄を一つのロッカーに詰め込み、大抵はまずパチンコ屋に行く。
時間帯もパチンコ屋の開店時間と重なるため良い台が選べる。

普通は三、四人いるので本気勝負に出れば必ず誰かの台に当たりがくる。
全員大勝ちという大漁旗を掲げたくなる大吉日も無くはなかったが、まあ、相手もプロである。

ただ当時は、ハンドルを軽く回せば自動的に玉が出る今のパチンコ台と違って手元にある小さな穴から玉を一つずつ入れ一発ずつ弾いていく台が主流を占めていた。
なので一度チューリップが開くと玉を 2 個 3 個続けて入れ、複数玉をいっぺんに弾くのである。
力加減が必要な裏ワザだったが、たいていの場合それら複数の玉はひと固まりになって目指すチューリップに入っていく。
つまり、このようにしてチューリップを出来るだけ長く開きっぱなしに出来るなら、ある程度の球数は出せたのである。

あとは出玉を景品に替え、パチンコ屋の裏筋にある交換所に行って換金してもらい、とりあえずは腹ごしらえをする。

ランチメニューは、パチンコの出来と各自のポケットマネーに応じて決定されるが、時には立ち食い蕎麦を、時にはラーメン屋で餃子とラーメンを、時にはカレーライスなどを食べる。

そして食べながらその日の大まかな活動計画を立てる。

新宿まで映画を観に行くこともあったし、近くの雀荘で麻雀をしたり、パチンコの 2 回戦に挑んだりすることもあった。
だが金運に恵まれない日もあるので、そうした日は仕方がないのでそこらの公園に行って暇を潰すしかない。

タバコを吸いながら人生についてあれこれ語り合うわけだ。

( その2に続く )

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