大学時代の友人のツイッターを数年ぶりに見て覚えた劣等感と、前に進む意志
小説でとある賞を受賞していたり、他でも自分との圧倒的なレベルの差を見せつけられたり。数年前の大学時代は同じくらいの位置にいたのに。
(自分にとって大学時代は、最も病んで荒れて壊れていた時期です。後述しますが、周囲の人と衝突したり、迷惑をかけていました)
しかしつらいだけで終わらせずに、前に進む意志へと繋いでいく。僕が真にやるべきこととは何か。
数年ぶりに友人のツイッターを見たきっかけは、深い理由もなくなんとなくでした。
友人Aの場合
彼は小説でとある賞を獲得していた。
すでに自分の作品を商業出版していて、書店にも紙の本として並んでいるようだった。
彼の小説の一部はウェブでも公開されていたので、少しだけ読んでみた。
(気持ち的に一度にたくさんは読めそうになかった。)
明らかに面白かった。
ライトノベル的な作風なんだけど、流行に乗せて売るために書かれた量産型の文章とかじゃない。少し読んだだけで、確かな力があることを理解できた。
しかもその文章の中に、彼のバックグラウンドとか個性とか趣味とか、そういうものがうまく消化されて溶け込んでいた。
この人は日々研鑽を積み重ねてきた人間なんだと、はっきりわかった。
文章をワンセンテンス読み進めるごとに、彼は無数に浮かんでいた問いの一つずつと対峙し、自分の答えを出して一歩ずつ進んで来たんだな、ということが伝わってくる。
その結果として、あの頃は全ての扉にCLOSEDの札が掛かっていたけど、今じゃそれもOPENになったということなのだろうか。
それに比べて自分は(比べる必要はなくとも瞬間的についやってしまう)、本当に単なる無能な雑魚に過ぎないな、という劣等感に頭の中をかき乱される。小説を書くことをメインにしてきたわけじゃないけど。
そして、彼の小説の中ではとあるゲームが重要な立ち位置を占めていた。
そして、そのゲームで僕と彼は何度か対戦したことがあった。
もうなんとも言えない気持ちになった。
罪悪感とか劣等感とか懐かしさとか密かな親しみとかその他諸々で。あの頃はうまく気持ちをやりとりすることができなくてごめん。
そして、結局のところ、最後にはこう締めるしかない。
「ありがとう」と。
友人Bの場合
生存者バイアスというものがあるようで、まだツイッターを更新しつづけている人はだいたいが何らかの強みやステータスを持っていた。
少なくとも持っているように見せてはいた。
最後のツイートの日付が数年前のまま止まっていたアカウントもいくつかあった。彼らは今頃どこで何をしているのだろう。それはわからない。
(僕自身、自意識と罪悪感の重さに耐えきれずアカウントを削除している)
自分にとって大学時代は最も病んで荒れて壊れていた時期だけど、その中で長く関わっていた一つは文学(を読む)サークルだったので、今でも小説を書いている人が何人かいた。
友人Bも、ストイックに小説を書き続けていた。
友人Aの作品はライトノベル系統のエンタメ作品だったが、この友人Bの作風はガチな純文学だった。
彼はとてつもなく博覧強記だった。世界中のあらゆる小説を読んでいるんじゃないかと思えるくらい。
有名作品だけでなく、古書の中でしか読めない希少な小説を、それが失われることを危惧しながら読んでいた。
その縦横無尽な教養は、ツイートからすらもうかがえた。
相変わらず強い希死念慮に襲われているようだったが、この人はものすごく頭が良くて文学好きなんだなということがわかった。自分とは明らかにレベルが違う。
彼との人間関係は、喧嘩のような別れ方になってしまっている。
当時は苦しすぎて自分も相当性格悪くなってたし、向こうも苦しすぎて相当性格悪くなってたと思う……けど、もう少しやりようはなかったのかな。やり直せたらいいのに、と思ってしまう。
しかし自分にはもはやそんな資格はないし、向こうにもそんな余力は残ってなさそう。
時計の針を戻すことは出来ない。過ぎ去ってしまったことだ。
未だに本棚に置いてある、学生時代の彼の同人誌を眺めているくらいしか出来そうにない。
渦巻き始めた劣等感と罪悪感
なんとか、理性的に対処しようとする。
その胸中の格闘においてもっとも効果が高かったのは、今年の四月に世間から去っていった親友の言葉を思い出すことだった。
「(僕に対して)けっこう劣等感を感じていたけどね」と、いなくなる数日前に話してくれたことだった。
僕としては、自分は能力的に彼よりかなり格下だと認識していた。
過大評価でもお世辞だとしても、もはや疑っても仕方ないし、すがれるものならすがっていく。
僕は未だに五年以上前のあの荒廃した大学時代の中にいる。
立ち止まったまま歩き出せずにいる。
皆の背中ははるか彼方。
しかし勝負してるわけでもなければこれはレースでもないはず。
自分のやるべきこととやりたいことをやっていくだけ。
ごめんなさいよりもありがとうを胸に。
人は一度つかみ取ったことでも忘れてしまう。
ならば何度も自分に言い聞かせる。その度に強くなる。
何もかもが変わらずにはいられない。
変わっていく旧友。
変わっていく街並み。
学生時代に通ったマクドナルドのメニューすら、変わっていく。
だったら自分は変わらずにいる。
まるでただのハンバーガーのように。
ベーコンレタスバーガーでもチキンクリスプでも期間限定メニューでもない、飾らないただのハンバーガーであり続けたい。
改めて、自分は何をやりたいのか、どうなりたいのか
そもそも自分は、エッセイでも詩でも小説でも、純粋に作品単独として至上の価値を持たせようとしていない。
自らの脳裏に焼き付き、最大限にリスペクトしているネット上で救われた原体験がある。まだ断片的にしか語れていないが、それこそが目指す地点。
何度かしている話だけど、主にこのあたりで触れている。
今まで自分がしてきたことは何かと振り返ると、ネット上に「自分」という存在を書き写しているのだと思う。
エッセイでも詩でもどんな形態を取っていても、結局のところ「自分」なんだ。これは。
純粋な単独の作品だけじゃ出来ないことがきっとある。
ネット上でなくては出来ないことがあるはずだ。そう思っている。
聞き飽きたような「人のため」とかでもない。
そういう発想の中からは生まれ得ないものがある。
自分がやりたいからやってるだけ。自己治癒の試み。
本能のままに叫び散らす。まるで獣のよう。
1000人中999人が嫌う醜いやり方。
でも僕はそれによって人生を救われた側の1人だ。
あの光景は今も強烈に焼き付いていて生涯忘れることは無い。
999人の側は他にも沢山の選択肢があるのだろう。ややこしい人間に関わるメリットもなければ、そもそも何故そんなことをしているのかよくわからないだろう。
一方、残りの1人の側の人間には、取りうる選択肢がきっとそう多くはない。
激しい孤独に苛まれているかもしれない。
現世と冥界の狭間をさまよっているかもしれない。
殺人を計画しているかもしれない。
カルト宗教に入信しようとしているかもしれない。
どうしようもなくネット上で暴言を吐いているかもしれない。
その1人の側に立つには、こんな醜いやり方が1つの手段になる。
この局面において綺麗事が通じないのは当然。
必要なのは混沌と破綻、弱さと失敗、憎しみと嫉妬。
そしてユーモアを適量ふりかけて。
他人事でなく、その1人とは過去の自分自身でもあり、現在の自分自身でもある。
違う立ち位置、違う目線からは語りようのない事柄。
ただし混沌と破綻だけでは、投げた渾身の一球も受け手のもとに届く前に減衰してしまう。
だから日々鍛える。これは最終局面にして、まだ始まったばかりの戦い。
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(追記)今回のノートのつづきみたいな話
頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha