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【一話完結】人の承認欲求を笑うな

セックスは承認欲求を満たしてくれる。
だから私には絶対に無くてはならない。
もし誰からも求められなくなる日が来たらなんて、考えただけでゾッとする。

「まこちゃんも、いつまでもそんなことしてないで、ちゃんと良い人見つけなよ〜」
土曜日の午後、ホテルのレストランで突然頭から冷水をかけられたような気分になった。
ティーカップを上げ下げする左手の薬指にはこれみよがしの指輪が輝き、その顔には長年の椅子取りゲームから解放されたような安堵の表情がへばりついている。
「まだとっかえひっかえしてんの?大学時代も相当クラッシャーだったもんなーまこは」
手前の皿からスコーンを取ってクリームをたっぷりつけながら笑う女。毎日欠かさず「おひとりさま生活」に関する投稿をSNSに上げているお前も、承認に飢えて飢えて仕方ないくせに、なぜ他人の欲求を嘲笑えるんだ。
「自分のこともっと大切にしなきゃ。自分のこと大切に出来るようになったら、きっと人のことも大切に出来るよ。そしたらまこちゃんにも素敵なパートナーが見つかるよ」
「男に自分の価値を委ねちゃ駄目だよ。自分の価値は自分で決めないと。もう大学生じゃないんだから」
私は帰り道の駅のトイレで、7500円したアフタヌーンティーを全部吐いた。

私は道行く人とすれ違いながら、
こいつはヤれる、こいつはヤれない、
と判断する癖がついている。
他人は自分の鏡だと思っているので、私も他人から、同じように四六時中品定めされているのだろうと思う。
そういうもんだろう。
そのまんまの私でいいんだよとか、ありのままが一番美しいとか、言うけど、そんなはずが無いと私は自分を思う。
そう思いたい人がいるなら思えばいい、でも私は違う。
ヤれない私に価値は無いし、私は価値ある自分でいたいからヤれる私でありたいのだ。
今や国民の敵となった承認欲求の、私なりの満たし方を批判してくる人は皆盲目だ。
結婚をすることは、承認欲求だと思うし、SNSでいいねを稼ぐことも(世間で散々言われていることだが)承認欲求だと思うし、
それらは私がセックスに承認欲求を求めることの何が違うのだろう。
セックスより、高尚なことだと、誰が言えるだろう。

初めてセックスを覚えたのは15歳の頃だった。
何の価値も無い私に、唯一価値を授けてくれたのがセックスだった。
私が私だから評価されることだった。
(と長らく思っていたが世間はそんなに甘いものでは無いことは大人になってから分かる。しかしそんなことは今や問題では無い)
それが大人になってもまだ続いているだけだ。
虫取り少年が、大人になって昆虫博士になるように、私はそのまま育っただけだ。
誰とでも寝ることは自分への暴力だとか、貞操観念が未熟だとか、はしたないとか、アバズレ尻軽ヤリマン散々言われてきた。
そう言いたい人は、言えばいいけど、その言葉を、誰かに発するということ自体、もはや暴力だと気づかないのは、そう発していいんだと大きな何かに許可されているからなんだろうか。
だとしたら、今の時代が平和だなんて、多様性を認める社会だなんて、口が裂けても言えないよ。

私は結婚しないだろう。
子供も産まないだろう。
美容に大金をはたくだろう。
若さにしがみつくだろう。
性的対象に媚びるだろう。
それでも、残酷にも私は老いるしいつか死ぬ。
(他の全ての生き物と同じように)
そうなった時にどんなものが残るかなんて、どんな気持ちで生きているかなんて、誰にも分からない。
私はただ、それを見てみたい。見てみたいのだ。
人の生きる理由も、幸せの形も、一つでは無い。なのだから、もうこれ以上、人の承認欲求を笑うな。

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