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ロボットと哲学④人間の行動規範

「三原則」と人間

 前回はアイザック・アシモフの小説に登場する「ロボット工学の三原則」を取り上げたが、ここで人間の思考や意思を制約するものは存在するのかという問題に突き当たった。ここで再び「ロボット工学の三原則」を参照しよう。


第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらねばならない。

この原則を人間の行動規範に当てはめて考えると以下のようになる。

第一条 慈悲深い人は自らの身を呈しても他人に利する行動をする。   第二条 善良な市民は法を守り、社会に害を及ぼす行為を避け、周囲と協力し、自分に利益がなくとも「世のため人のため」となるような行動を取る。
第三条 生物学的な自己保存の法則によって自らを防衛する。また、自らの利益を追求する。

これらの行動原則は、人間の思考や行動を決定付ける内的要因である。人間はロボットのように必ずしも正しく合理的な判断をすることはできないが、思想や宗教、道徳感や気分などに従って行動を選択する。換言するならば、人間にとっての三原則は「利己心」の尺度であり、第一条に近づく程「利他的」な人間であると言える。カントに従えば、「目的の王国」では人々は第一条あるいは第二条に従って行動するという訳である。ここで、第二回で先延ばしにしていた「社会の道徳と個人の自由」に関する問題が浮かび上がってくる。
 アシモフの世界では、ロボットが第一条に優先的に従うようにプログラムされていた。ロボットは人間に加えられるあらゆる危害を合理的に排除していく。カントにおける「目的の王国」に置いては、人間が第一条(少なくとも第二条)に従って行動することが望まれている。

J.S.ミルの道徳観

 イギリスのジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill 1806-73)が考えるに、人間が本能的に従うのは第三条である。しかしながら人は一人では生きることはできないので、社会の中で他者と触れ合うことになる。他者との触れ合いの中で他人に対する「共感意識」が獲得されることで、人間は次第に利己的な存在から利他的な存在へと変わっていくという。そして何人も道徳教育によって「利他心」を獲得することが可能であると考えたのである。
ミルの思想は、経済学の視点からは楽観的過ぎるとの指摘が良くなされている。彼の、あらゆる人間が利他的な行動をとるという仮定が、一般的な経済学が前提としている自己の利益を最大化する仮定に反しているためである。しかし、今回は経済学の記事ではないので、ここでは道徳に関する議論に着目したい。

    道徳は「社会生活を営む上で個人が守るべき規範」と言えるが、ミルにとっては社会が人々に教育することが可能なものであった。社会によって道徳が決められるのであれば、人間の行動原則もまた社会に決定付けられることになる。社会が選択すべき「正しい」行動を決めるのであれば、人間もまたロボットと同様に思考や行動を外的要因によって制限されていることになる。

時計じかけのオレンジ

 このような命題はアントニイ・バージェス著『時計じかけのオレンジ』の主題となっている。本書に「ロボット」は登場しないが、今回のテーマには欠かせない作品であるため紹介させていただいた。主人公は暴虐の限りを尽くす不良少年であるが、洗脳(調教)的な手法によって彼に「悪徳」とされる行為を禁ずることは、果たして正しいことであろうか。現在は法律が人間の行動を制限しているが、これが個人の自由意志にまで及んだら全体主義と変わらないだろう。本書は社会における「善悪」と個人の自由意志の危うい関係を克明に描いた作品である。スタンリー・キューブリックによって映画化もされており、私個人としては小説・映画の両方をお勧めする。

次回に向けて

  社会によって道徳や善が決定するならば、果たして人間は自由であると言えるのであろうか。経済や社会、文明等の外的要因が人間の思考や行動を決定すると考える思想を構造主義と呼ぶ。構造主義に従えば、人間にとっての「三原則」も外的要因によって決まると言える。次回は構造主義について簡単に紹介しよう。

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