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AIと般若心経、あるいは「自己」がどーでもよくなる時

私の観察するところ、AIにのめり込む人には二つの種類がいるらしい

・ひとつは「よりよい」AIモデルやサービスを熱心に探求する人たち

・もうひとつが、AIそのものを研究しているうちに、

AIそのものよりも、それが模倣しているところの、「人間の脳」のほうが気になってくる人たち

そして私はどちらかと言えば後者にいるらしい

「そう、AIと向き合っていればいるほど、こいつのことが気になるのですよ、こいつですよこいつ、この、私の、頭蓋骨の中、ここに入っているこいつ、、、コツン、コツン」

ところでと。

今日は、以下の本を読んだ

AIとあわせて、AL(人工生命)の話が出てくる。Unityの中であっけなく、機械学習するプログラムを、「飼える」。Unityで気軽にできるのはよいのだけど、こうやって作った「学習したもの」をリセットする時に感じるあの不安というか申し訳なさというか、かすかな慈悲の気持ち、あれは何でしょうね?

そして、出てくるものは、いまやすっかり市民権を得てきた、このニューラルネットワーク図↓

「よく見るこの図って、何を表してるの?」

「簡単に言えば、左から情報(文字でも画像でも音声でもよい)が入ってきたら、それが『ぐるぐるぐるぐる』いろんな層を行ったり来たりして、ふくらんで、右から新しい情報(文字なり画像なり音声なり)で出てくる。問題は、真ん中の、何層もの丸と線がぐちゃぐちゃに入り乱れているところで、情報がぐるぐるぐるぐるとこねくり回されることだ」

実際、Pythonで簡単な無料のニューラルネットワークを動かしてみて、途中の処理を出力させると、入ってきた情報を何度も何度も精錬して、どんどん「それらしい」出力に成長させていくのがわかる。

でもそれって、人間の脳でもやってることだよね??

そりゃ、人間の脳を模倣しているのがAIのニューラルネットワークなのだから、似てるのは当たり前なのだけど、、、

「AIが人間の思考に似たことをしている、すげえ!」

というよりも、

「え?すごく不思議で神秘的なことをしていると思っていた人間の脳も、もしかして、原理的にはこれと同じ??」

という不安の方に駆られる。

私が、家族や仕事のことに悩んで、頭の中でぐるぐるぐるぐる、「ああでもない、いや、こうでもない」と思い詰めている夜も、仕組みとしては、これと同じ?

いや、「ぐるぐるぐるぐると情報をこねくり回した上で、決められただけの処理を終えたら、そこで、バリッと結論を出す」AIのほうが、ぐるぐるぐるぐる言葉をこねくり回して結局何も決められないことがある人間の脳よりもマシなのではなかろーか?

とかとか。

人間の脳の中には、というか、まあ、「私」の脳の中には、魂とか、心とか、自己意識とかいった神秘的なものが詰まっているような気がこれまで何となくしていたのだけど、

なんのことはない、そんなものは、百兆ものシナプスがあるせいで感じられる一種の「バグ」であって、本当は機械的な処理をしている電気信号のパターンがすべて、ではなかろうか。

そう考えると、夜寝ようとしても、自分の頭の中でぐるぐるぐるぐる回る思考が、

↑この図に則っているだけのように思えて、考えたりすること自体がとてもつまらない。それで、たまに、眠れない。

ただし、そんなことを思っている時に、ふと、思い出したことがある。

最近、肉親が亡くなったせいで弔事に走り回っていたおかげで思い出した、お坊さんの読経のことである。

色即是空とか、空即是色とか

空即是色とか、色即是空とか、

あるいは、、、色即是空、空即是色とか

もしかして、ああいう、日本仏教的なマインドの中には、最初から、

「人間の脳なんて、煩雑な情報のカタマリにすぎない、そんなものは軽くしてしまえ」という思想があったのかもしれない

そう思って、以下の本を買って読んだ。そうです般若心経です。

「けっきょく日本人、歳をとってくると、般若心経がいいなあ、と思うのかよ!」

というツッコミは、なにせ、私が私に対して感じたばかり。

ところが、AIを相手にしているところの私には、抜群に面白かったことを認めなくちゃ。

・無受想行識(むじゅそうぎょうしき)

「私」などというものは、突き詰めれば、「ない」ことに気づくこと

・無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんに)

「私」の中にあるものは、目や耳、鼻や舌、そして肉体や意識が受動してきた過去の記憶が澱のように溜まっているだけの、いわば「情報のプール」であって、それを除けば「空」でしかないこと

とかとか、とかとか。

これがマインドフルネスとか瞑想とかいうものに近いのかもしれないけど、

なるほど、AIの勉強をすることで、「人間の脳もコンピュータと同じ」ということを冷徹に突きつけられたあと、

この手の仏教本を読んで、「それでいいのだ!むしろ、近代現代人の、『自分が!世界に一つだけの、オリジナルでかけがえのないこの自分が!』という強烈な個人主義のほうが無理をしていたという、ただそれだけのことかもしれないのだ」というふうに考えを進めるのは、

ちょいと飛躍もあってアブないかもしれないけれど、ひとつの「世界の見方の発見」としては、悪くない。

少なくとも、

AIを通過した後に般若心経に寄り道した

おかげで、

サウナとか、小川のせせらぎを聴きながらのピクニックとか、そういう「空になれる」瞬間がとても心地よく感じられるようになったのは変化だ。

AIの使い方としては、かなり風変わりだろうけど、

AIと付き合うことで、人間の側が、いやおうなしに、モノの見方を変えられること、

それも、

「人間が世界でいちばん偉い」

とか

「自分というものはコピーも置換もできないユニークなものだ」

とかいった考え方が崩されることは、何も、悪いことではない気がするのだ。少なくとも「今」の、「私」は、そんなところへ、AIに連れてこられた、、、もちろんこれも、ひとときの、幻想の境地なのかもしれない。

つまるところ、すなわち、

諸行無常


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