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SF映画『プロメテウス』を観て日本人の私はどーしても思ってしまうこと…「人類を創造したのが誰だって別にいいじゃん?そんなに気になる?」

まあ、、、キリスト教圏の人はとても気になるということなのですかねえ?

いえ、私とて、好奇心がないわけでも、ないのですよ?

人類はどこから来たのか?いやそもそも「生命」はどのようにして宇宙に現れたのか?そういうことについて、科学的な興味ならば、とてもありますよ?

でもですねえ、、、

「宇宙の遠くに我々の祖先と思われる異星人が?」

「なんだとおー!我々には創造主がいたのか!何としても会いにいかねばならん!」

「そうだ!そして、なぜ人類を創造したのか、そして私たちに何を期待していたのか、話を聞いてみなければならん!」

「うおおー!その星に来てみたら、嵐がアアア!謎のモンスターがアアア!探検隊に犠牲者が続出だアアア!」

「だが、、、ここで諦めるわけにもいかん!何としても創造主に出会って、人類創造の理由を聞かねば!何人犠牲者が出ようとも地球に帰れるかってんだああああ!」

、、、という、「世紀の大発見を目の前にして調査を途中で打ち切るなんて勿体無い!」というコンコルドの誤謬そのものの執念に凝り固まった方々がどんどん事態を悪化させていくSFホラー映画、それが『プロメテウス』。

私のような東アジア人がクルーにいたら、「いや…人類の創造主なんてぶっちゃけ誰でもいいじゃないですか!仲間に犠牲が出過ぎですよ、いったん地球へ帰って仕切り直しましょう!」と主張してしまいそうだが、「人類の歴史を覆す発見が間近だ!」という想いに駆られた方々の暴走が止まらない。

決してバカにしてるわけじゃありせません。SF好きな私としては、実は、

『エイリアンシリーズ』の前日譚として制作されながら、興行的には微妙な結果に終わり、エイリアンシリーズファンからも「なかったこと」にされがちなこの作品、意外に、好きなんですw!

ただし、私の見方は少し斜めで、

人類を創造したのは神様ではなく、遺伝学上の偶発でもなく、宇宙人の計画かもしれない」というテーマへの情熱の違いに、西洋と東洋の違いを感じてしまう、そんな異文化理解の一端で私は『プロメテウス』を見た。もっともこの見方は決して見当違いというわけでもないと思ってて、主人公の女性科学者は十字架をいつも身につけていて手放すのを嫌がったり、キリスト教的なモチーフは、作り手のほうからも意図的に強調されている。

だからこそ、なおさら、気になってくる。私のような日本人は、よしんば、地球人を作ったのが宇宙人の仕業だったとしても、「ええ!そうだったの?ふうん、、、でもまあ、そんなこともあるかもしれませんねえ」くらいで飲み込めちゃいそうな気もする。

この映画のキャラクターたちのように、「そんな事実はオオゴトだ!どんなに犠牲が出ても、真実を確認せねば!」という執念で事態を悪化させることはないでしょう。

まして、、、その「人類の祖先と思われる宇宙人」の遺跡をついに発見するものの、どうやら軍事基地っぽかったり、さらにはこの宇宙人同士でも殺し合いをしていたらしい死骸の山なんかを見つけて、

ああ、、、なんてこと!人類を創造した宇宙人も私達とたいして変わらない、戦争や暴力に満ちていた存在だったの?、、、いやいや、きっと、そんなわけはない!もっとこの遺跡を奥まで調べないと!」とは、ならないでしょう。

※『エイリアン』シリーズを思いながら描きましたイラスト。ただし背景の宇宙船はAIに描いてもらった

「いやいや、世の中、何事も真実はそんなものでしょう?そりゃ、私達人類を生み出した宇宙人が、崇高な存在だなんて確証は最初からなかったでしょう?テクノロジーだけは発達していつつも、心根は我々とたいして変わらない存在だとしても、別に不思議はないでしょう?ねえ、もう調査やめましょうよ?引き返しましょうよ?この遺跡をもっと奥まで進むときっと何かやばいもんが出てきますよ?だってこれ、、、『エイリアン』シリーズの前日譚なんですぜ?」

と、人類の創造主が誰であろうと特に気にしない東洋人キャラが一人いればそう言い続けていたことでしょう。でもこの映画のキャラクター達の暴走は止まらず、遺跡の奥へ奥へと進んでていき、

「ほらー!だから言ったのに!『エイリアン』の第一作と時間軸がつながってきたら、、、もう手遅れだー!ぶぎゃーー!」と、バッドエンドへ真っ逆さま。

ま、繰り返す通り、

私自身はこういう、キリスト教的なテーマをあえて未来宇宙世界を舞台においかけるSFは嫌いではない。駄作扱いする方もいる作品ですが、私は好きなのですよ。

ただし、確かに、『プロメテウス』には、映画として、大きな弱点がある。

前述の通り、「人類誕生の謎に迫るSF」という壮大なテーマを掲げておきながら、

途中から、急激に、『エイリアン』シリーズの「第一作につながっていく」という方向に、強引にストーリーがねじれていって、肝心の「人類誕生の謎」が、なんかよくわかんないうちに終わってしまうんですなw。おーい、最初に掲げた壮大なテーマは結局どーなったんだ?その調査のために大量の犠牲者が出てた筈では?

つまり、

身も蓋もないことを言うようですが、

このテーマを掲げるなら、『エイリアン』シリーズとはまるで別の、独立したSFとして作ったほうがよかったのではなかろうかw!結局、後半から『エイリアン』につながっていくほうに話がぶれ、しかもそれでいて肝心のみんな大好きな「あの」エイリアンの活躍シーンは少ないので、消化不良な気持ちになってしまう。

もちろん、この作品があまりに話を広げすぎて、

「人類誕生の謎」

「エイリアンの正体」

も、両方、中途半端なところでズバッと終わってしまったことを受けて、

この作品の後日譚である『コヴェナント』が作られるわけですが、

『エイリアンシリーズ』を基本的には高く評価する私もさすがに擁護できないほどのグダグダな作りとなってしまったのが、この『コヴェナント』でして、、、

ううむ、これだったら、いっそのこと、「人類の誕生」の謎も「エイリアンの正体」の謎も、謎のまま終わってしまった『プロメテウス』の段階で終わりにしたほうがよかったのではなかろうか、、、とすら、思うた。

いずれにせよ、、、これは『エイリアン』全体に言えることかもしれんのですが、

やはりあの、SFホラーモンスターのレジェンド、「エイリアン」は、正体不明の謎の生命体であるから、面白いのであって、その正体についていろいろ後付けの設定を追加していく必要はないんじゃないでしょうか、、、エイリアンはどこから来たのか、誰が生み出したのか、そんなこと、少なくとも私は気にしていない、、、むしろ謎のままのほうが「怖さ」が増幅されるキャラなので、たくさん続編をつくってその「正体」に迫らなくてもいいような気がするなあ。。。

、、、という、「モンスターはどこでどういう経緯で生まれたかわからないほうが怖くてよい!」という発想も、日本人的なのかもしれませんけどね。洋物ホラーって、シリーズ化されればされるほど、モンスターの「生い立ち」に迫っていってどんどん陳腐化していく傾向があるが、あれも西洋東洋の文化の違いなのかしら?話が長くなると、どうしても「起源」について語りたくなってくるもんなのですかね、、、。

ただ、繰り返しになりますが、私個人は『プロメテウス』は意外に嫌いではない。『エイリアン』シリーズとは別物として、リドリー・スコット監督が追究してくれればよかったプロットじゃないかなぁ?ともあれ・・・「人類を創造したのは実は神様ではなくて宇宙人だった!」と言うテーマは、SF小説のほうでいうなら、わりかし昔からあるテーマなので、やはり題材として映画でいまさらやるのはそもそも企画段階から難しかったということなのかもしれない。。。いやあ、映画ってほんとに難しいですねえ・・・。


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