おどるメイドイン『存在と時間』(ハイデガー対夢日記)
さて、、、
このnoteでも何度もお伝えしてきた通り、私にはたぶん、ちょいと「普通でない」気質があるようです。
子供の時に悪夢障害で「寝るのが怖い」と苦しんだり、
大人になった今でも夢の中に出てきた人に「実はあなたが現実だと思ってる人生の方が夢で、毎晩見ているこちらのほうが現実なのだ」と力説されたり、
とにかく「夢と現実の区別」がたびたび混乱させられている。何か精神科学的にも名前がある気質タイプなのかどうかは知らないけど、どうやら他の多くの人はこのことにそんなに悩んでいないようだ、というのは、逆に私から不思議である。それくらい私にはいつもつきまとう問題で。
そんな私は、この2023年11月、人生で最大くらいに「夢が現実に侵入してくる」という不思議体験をしたのだけど
今回は、そんな私が、いわゆる西洋的な「哲学」というものについて思っていること。私の↑このような悩みにつきあってくれる学問というのは、一見するといわゆる「西洋の合理的な学問」には合わないと思われがちだが、
そんなこともない。西洋のガチガチな哲学にも、私の大いに役に立ってくれるものはある。
ただし、例によって、普通の人の「哲学の読み方」を僕はしていない。そういう意味で、僕が取り上げる哲学者というのも、意外な名前になるかと。つまりそれはスピリチュアルな領域からも引用されやすいユングとかフロイトではなく、
なんとハイデガーの『存在と時間』だったりする。
これは、ハイデガーを本当に大学で研究している人からしても驚かれるんじゃななかろうか?「夢と現実の境、という問題に悩んでいる人の助けに、ハイデガーが?!どこにそんな要素が?!」って。
ところがこれが、本当なのでありまするよ。。。
まあ聞いてほしい!
夢の中でしばしば「現実」なるものを否定されたり、名前や顔を剥ぎ取られたりする怪体験をする僕にとって、
「自分とか主観とかいったものではなく、ただそこに実存している『現存在』」と私自身を措定することも、
「ここが夢だろうと現実だろうと関係なく、なんらかの世界の中に「いる」感覚としての、『世界内存在』」とか言った用語も、
とてもリアルに感じられる用語、ということです。
ギョッとするハイデガー解釈に聞こえるかもしれないが、「ここが現実だろうが、夢だろうが、なんだろうが、『なにかが在る』という存在論だけは、必ず、どんな不思議体験の時にも、たしかに基盤として残っている!」といのはハイデガーの言う通り。
となると、私のような風変わりな夢見人間にとっては、ひところ流行した構造主義うんぬんよりも、ハイデガー存在論が「生きる上でたしかにリアルで助けになる」哲学という妙なことになる。そういう観点で、11月以降、『存在と時間』を最初から読み直すというコツコツ営為を行なっている。また何か新しい発見があれば、また、書きたい。
もちろん、こんな視点で西洋哲学を読んでいる人間が、哲学好きからも、哲学嫌いからも、ともに「??!!」と理解されがたい者であることは自覚している、深く。。。自覚してるから、気恥ずかしいので、タイトルでふざけました。「おどるメイドイン」ってなんだよ。
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