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子供時代に疑問に思っていたこと

この件についての一番昔の記憶は幼稚園の頃だったように思う。

小さい頃から「今」という概念が奇妙で仕方がなかった。

「過去」も「未来」もなんとなく理解できるのに
どうしても「今」だけが分からなかった。

両親に
「今って何?」
「未来はあって、過去もあって、でも今って言った時にはそれは過去になってて、じゃあ今はどこにあるの?」
そう質問しても「変なこと言ってないで、宿題やりなさい」
と言われ話は強制終了させられていた。

両親も答えが分からなかったから、適当に誤魔化していたのだろう。
それは子供心にもしっかり感じていたので、適当にやり過ごされたフリをしてあげていた。
ここを追求したら親が可哀想だなと思っていたのだ。
本当に、つくづく可愛げのない子供だった。

思考に関して、両親が全く当てにならないと感じた私は、
以来自分の心に湧き起こる疑問について、両親に質問するのを止めた。
脳が満たされずにとてもつまらなかったし、寒々しく感じていた。

現代のように子供でも自分でインターネット検索ができる時代ではなかったし、
かなりの田舎で育ったために公立の図書館は子供一人で行ける距離にはなく、
知識を深める手段がわからないまま、モヤモヤが一周回って、
小学生にして半ば諦めながら生きてきたようにも思う。

テストの点数さえよければ、大人は機嫌が良い。
それが人生にとって何の役にも立たないだろうことは薄々感じていたけれど
今を生き延びるために大人たちの存在をなるべく負荷なくやり過ごしたかった私は、
点数をとる手段だけに磨きをかけて行った。

そうやって大人になってしまった私は、いつの間にか本物の心から求めるものが何かを
すっかり忘れ去ってしまっていた。

ここ最近、新しい人生に向かうために、子供の頃の記憶を辿っているのだが、
その記憶から今最も掘り起こしたいテーマは、
「自分は何に興味があったのだろうか」
という点だ。

作られた社会や周りの大人たちに求められている範囲から捏造された
体裁の良いテーマではなく
本質的な魂からの疑問や課題のようなものを
子供の頃はちゃんと覚えていたような気がするのだ。

その中の一つが「時間」の概念についてであり、
過去と未来と今の捉え方についてだった。

さらにそこから思い出したことは
「今ここに本当に自分が存在するのかが疑わしいのではないか」
という疑問だった。
そんなことについて、小学校低学年の頃からモヤモヤと疑問を抱いていた。

何か事前の知識があったわけでもなく、
ただ直感的に、「今」という時間の概念と、「私が今存在するとは何か」という不確かさへの不安について、理屈ではない部分で何かを感じていたのだ。

これらの疑問について「子供だからそう感じるのよ」とか「早い思春期かしらねえ」なんて言われていたわけだから、
悪い言葉で罵ることを許していただけるならば
「アホなのか、大人は」
と率直に感じていた。

子供時代の一連のそれらの思考やら記憶やらを思い出すことができ、
ついうっかりアホの波に飲み込まれて沈没しそうになっていた私が
ギリギリのところで息を吹き替えせたのが、ついこの頃である。

私は多分

「今」と「存在」について

体感して、知りたかったのだ。

「今ここに存在している」と感じるものは、つまり一体何なのか。

私の目の前には本当は何が「存在」しているのだろうか。

子供の頃に感じていた素直な心からの疑問に
もう一度立ち帰ろうと思う。


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