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トレーニングによって「殺さず・盗まず・姦淫せず」の自然な心を獲得することは可能か?【『身体論』を読む】

西洋の宗教を見ていて、どうしても不思議に思ってしまうことが、ひとつある。

いわゆるモーゼの十戒が顕著なのですが、

・殺してはいけない
・盗んではいけない
・姦淫してはいけない

という教えはもちろん私も大賛成なのですが、

「え?それって、神様と契約したから守るって受け身なことでいいの?そんな基本的なことは神様抜きにしても、人間が自分たち自身の努力で克服しなければいけない『悪』じゃないの?」

と、思ってしまいます。

あと、世界史や、現代のニュースを見ていても、「殺すなかれ、すら、あなたたち、ぜんっぜん守れてないよね??」とか、率直にね、、、

そんな違和感を持っている時に、湯浅泰雄先生の『身体論』を読んだ。日本の宗教や精神史を「身体で覚える修行、というものを重視」する文化として読み解いた本。私の疑問や問題意識にズバッと答えてくれた凄い本でした。

西洋的な一神教が、人間を罪にまみれた者とし、神による導きがないと救われないとみなすのに対して、

日本の伝統は、芸事から宗教まで、「長年の修行や鍛錬で、心とカラダの双方を成長させ、最終的には高潔な人間性を獲得する」という考え方をベースにしている、という指摘が、まずもって面白い。

よく言われるところの、「頭ではなく体で理解しろ」「意識せずとも体が自然に動くようになるまで練習しろ」「善い行いは報酬を求めてやるのではなく、自分から自然に行動できるようになるべきことなのだ」とかいう、あれですね。

ああいう日本の伝統的な「身体重視」が、実は日本仏教の本質的なところにまで繋がっていて、

「邪な欲望が一瞬心に浮かんだとしても、盗みや姦淫に走らない」「どんな災害や戦争に巻き込まれてもパニックにならない」「弱いものや、苦しんでいるものを見たら、自然に慈悲の気持ちが湧いてきて、手を差し伸べる」、、、そんな心を持った人間に、「質素倹約、規則正しい生活を厳しく自分に与えて、心身を常に清らかでスナオな状態を守り、よく仏を敬うことで」、まさに、自分がそういう高潔な人格の持ち主に「なる」ことが目標されている、というわけです。

なるほど、そう言われると思い当たることはたくさんあるし、

私が西洋一神教に対して感じる違和感も、私自身がそのような「身体論」を背景とする日本で育ったからそう感じたのか、と整理すると、納得である。

そういうわけで私にとって湯浅泰雄先生のこの本は大変に重要なものとなったのですが、しかし、残念ながら私は1990年代のカルト宗教事件を子供の時にニュースで見てしまった世代。この本が書かれた時代とは、もう世代が違いすぎるので、どうしても巨大な疑問がひとつ、湧く。

まさにこの本で書かれている「師匠から弟子に、『頭で理解するな!カラダで覚えろ!』ということを重視する日本の精神文化」は、

洗脳とか、権威による支配(いわゆるマインドコントロール)とか、セクハラやパワハラの可能性とか、そういうものを許してしまうリスクも持っているのではないでしょうか?

カルト宗教が猛威を振るった後の世代にある私は、この『身体論』を読んだからといって、「やはり昔ながらの日本のやり方に戻そう」と安易に結論づけるわけにもいかない。

だが、アメリカ流儀を大胆に取り入れてから何十年も経過した今になって、社会のいろんなことが行き詰まりや閉塞を抱えている中、「やはり日本の伝統的な教育も、すべてダメだというのは行きすぎで、引き続き守るべきよい面もたくさんあるのでは?」と思っていることも、確かです。

マインドコントロールの可能性とか、セクハラパワハラ体質とか、そういった危険な方向へ堕ちることをいかに回避しつつ、『身体論』に書かれている日本精神文化の良いところを、どう復旧させていくか?

まこと難しい課題ですが、こういう難しいことを考えながら進むことこそ読書の醍醐味。頑張らないと。

そして、何はともあれ、「1990年代のカルト宗教問題よりも前の時代に書かれた」という前提は理解した上で、読めば読むほど、湯浅泰雄先生の『身体論』は、現代において埋もれている「知られざる名著」として、再読すべき一冊なのではないか、と思うのでした。


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子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!