自分のことを「遅れてきた論理実証主義者」と自虐的(ないし自ギャグ的?)に呼んでみたら突然見えてきたこと📕
すでにnoteに書評も載せましたが、最近読んだ本では、以下がとても面白かった。
私、エンジニアとして、社会人になってから、通信制大学にて大学数学およびコンピュータサイエンスをやり直した人なのですが、
ベイズ統計を習おうが、マルコフ過程を習おうが、「なるほど、、、でもさあ、この数学理論を使うと、世界の見え方や、認識のあり方、果てはもしかしたら、人間の倫理観は、どう変わるべきなのでしょうね?」と、すぐSF的なテーマに考察が向かってしまうのは、、、もしかすると私はスナオな数学アタマではなくて、分析哲学向きなアタマなのかもしれないですねw
※そう考えると、最新テクノロジーの勉強をしていても、すぐに「夢と現実」とか「狂気と正気の曖昧さ」とかいったテーマのレポートに流れがちなのも、英米分析哲学の流れの中に自分をおけば、孤独を感じなくてもよくなるのかもしれない!
ところでと。
上記の『世界を支配する人々だけが知っている…』という本に気になることが書いてありました。
「この本では、あらゆる知識を、モデル、データ、ナンセンスの三種類に分けて考えることを皆さんにオススメする。ちなみに、このような世界の見方は、20世紀の哲学者エイヤーの論文に教わった」
哲学史に詳しい方なら、「え!」と驚かれるかもしれないですね。
エイヤーといえば、いわゆる論理実証主義運動の中心人物にして、
論理実証主義といえば、20世紀後半の哲学の発展の中でフルボッコに叩きのめされた、オワコンな哲学流派だ、と思われるかもしれない。
ところが、
私自身、自分のプロフィールでしばしば
「遅れてきた論理実証主義者」とギャグ的に自称するように、
私と論理実証主義はめちゃくちゃ相性がよい。私にいわせてもらえば、論理実証主義はオワコンなどではない!
ただし、彼らは急いで単純化しようとしすぎたところはある。「何らかの科学的方法で実証できない言明はすべてナンセンスな言明である」というのは、「私は」とてもよくわかるし、基本的には私もそう思う。ただし「ナンセンスな言明」ってのは、言い方が悪かったよねw。「科学的方法で実証できない言明は、科学的な言明ではない」くらいの言い方にしておけば…けどこれだと「科学的でない発言は科学的じゃないって、あたりまえじゃないか!」と別の誤解を受け怒られそうだ。。。
かように、
「いいすぎ」「やりすぎ」「急ぎすぎ」たがゆえに、反感を買いまくり、20世紀後半の哲学界で集中砲火を浴びただけで、いろいろな行き過ぎを修正すれば、復活の可能性がある…と私が思っている「論理実証主義」について、
上記のような、最近の英語圏の数学者が突如、好意的に語っていたのは、我が意を得たりな感慨があったし、興味深かった。
というわけで、最近のいろいろな文脈で「論理実証主義」の先達の名前がちらほら復活している傾向をポジティブにとらえ、
引き続き、勝手ながら、「遅れてきた論理実証主義者」を自称させていただきます。なにはともあれこの自称、なかなか便利ではないか!?こう自己規定してしまうといろいろ見えてくるものが見えてきた…
▼ちなみに、運動としての「論理実証主義」の解説は、その前史後史含めこのシリーズの二巻が参考になります。この本の著書も、「哲学史上の運動としての論理実証主義は終わってしまったが、彼らが残した主張にはまだまだ今日でも研究のしがいがある独創的観点がある」という立場の模様。我が意を得たり!▼