日々好きになる、書くということ
日々、私たちは限られた選択肢のなかで生きてしまいがちだ。
同じ時間に起きて、同じ菓子パンを朝飯にして、同じ時間の電車に乗って同じ人間関係のなかで揉まれる。
休日も同じ音楽を聴く。
SNSを永遠スクロールする。
いつも通りnoteを開く。
「人は与えることでしか幸せになれない」とはよく言ったもので、
本当にその通りだなと思う。
何か嬉しいことがあると、それは偶然だと思ってしまいがちだ。
今日は運勢がそういえばよかったのかもとか、たまたま期待通りの答えが返ってきただけとか。
でも、それはよくよく考えてみると、私が何か与えているから。
具体的に何を与えているからなのかはわからない。
だけど、目に見えないものだから、裏を返せばきっと大事なもの。
そして、その言葉を私に教えてくれた人が言うように、返ってきたその物は私の与えた”何か”の価値をはるかに超えたものだったりする。
最近、母が自分の友人夫婦に私のnoteを紹介してくれたらしい。
冗談で「紹介しといて~」と言ってみたけど、やっぱりまだ気恥ずかしい。
でも少しずつ、オンラインでもオフラインでもコメントをいただけることが増えてきて、これは私のなかで大きな力となっていることに間違いない。
今までもいろんな縁がつながって、ここまでこれたから。
人とのつながり、そして私自身(の心)とのつながりをこれからも大切にしていきたいと思う。
もうひとつ思っていることがある。
世界は確実に多様性であふれている。
それは頭ではわかっているつもりでいても、心で感じられることって意外と少ない。
みんなそれぞれに信じているものがあって、それに沿って暮らしている。
自分の身の回りのことは当たり前に起こったことだと信じてしまうし、みんな同じように思ってくれたらいいのになと、決して淡くない期待感を持ってしまうもの。
私はnoteで出会える世界が大好きだ。
それは私の限られた人間関係や価値観、行動範囲を確実に広げ得るツールだからというのもあるし、自分次第で如何様にも伸び縮みさせられる(投稿頻度とか)からというのもある。
それに何より、1番自分らしくいられる気がする。
感じたことを素直に言葉にして、発信すると誰かが見ていてくれて、反応を貰える。
承認欲求、って言われたら否定はできないけど、それ以上に自分を「魅(見)せられる」ことがnoteの良さだと思う。
思い込みのなかにとらわれ、責任という名のでっかい荷物を今更おろせないからと日々もがき、感じすぎて考えすぎて疲れる。
目の前にひらかれた世界が決まりきったずっしりと重い世界でしかないと、私から出てくる”何か”だって決まりきったものにきまってる。
そう言い切りたくないけど、やっぱりそんな気が、どうしてもしてしまう。
だって、心が自由になれないからだ。
だから、私は書く。
誰かと対話するみたいに、息を吸って吐いて書きだして整理して、重い荷物を背負うのをいったんやめてみる。
腹の中にたまった怒りやその他の黒い感情たちを吐き出して、体の外に出す。
母を見つけ安心して泣く迷子のように、ドボドボと書き綴って心を安定させる場所。
学びであり、癒しであり、友達でもある。
それが私の趣味、日記だ。
今日も、私もあなたもがんばって生きている。
そう思いながら、明日も生きていけるように、
私は日々書くことを好きになる。
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