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【読書録】『正欲』朝井リョウ

今日ご紹介する本は、直木賞作家である朝井リョウ氏の小説、『正欲』(新潮社、2021年)。

(※以下、ネタバレご注意ください。)

この本は、「多様性」をテーマに、昨今の多様性を唱える社会の風潮に、鋭く問題提起をする作品だ。昨年出版されるや、たいへんな話題となり、2022年1月20日現在、本屋大賞にノミネートされている。

この小説にはたくさんの人物が登場するが、いずれも、人には理解されない特殊な欲や願望を抱えていたり、自分や家族が世間の一般的なルールから逸脱していることで苦しんでいたりする。

そういうマイノリティの側面を持つ登場人物たちの人生が交錯して、繋がりあい、影響しあう。

しかし、その嗜好や生き方は、容易には理解されず、社会の多数派から誤解されたり、非難されたり、排斥されたりする。

構成は、複数のストーリーが同時進行し、それが後になってつながるという、よくあるものだ。

しかし、それぞれのストーリーが、それぞれ、重い。考えたこともない感情を、これでもかとぶつけられる。普段は使わない想像力を要する。だから、なかなか思うようにページが進まない。私は普段はかなりの速読なのだが、この本を読み終えるまでには、とても時間がかかった。

ハッとさせられるような箇所も、数え切れないほどあった。

たとえば、人間に対する性欲が一切わかない男女が、世間から浮かないために形式的に結婚して夫婦になった話。一度、通常のカップルが行うセックスというものを試してみよう、ということになり、「これが、皆のしていることなの?」と驚き、不思議がるくだりがあった。

「アセクシュアル」な人々が世の中にいることは、知識では知っていたが、こういうことなのか、と感覚的に理解できた。

そのほか、強く印象にのこったくだりをメモしておく。

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなておかしい。
 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる、”自分と違う”にしか向けられていない言葉です。
 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする、そんな人たちがよく使う言葉です。(p6)
 夏月は思う。既に言葉にされている、誰かに名付けられている苦しみがこの世界の全てだと思っているそのおめでたい考え方が羨ましいと。あなたが抱えている苦しみが、他人に明かして共有して同情してもらえるようなもので心底羨ましいと。(p183)
 若いってああいうことだよな、と思う。背中に余計な脂肪がついていないこと。自分の暇を埋めるためには思い付きで誰かの感情を引っ搔き回してみてもいいと思っていること。社会の多数派から零れ落ちることによる自滅的な思考や苦しみに鈍感でいられること。鈍さは重さだ。鈍さからくる無邪気は、重い邪気だ。(p185)
 まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとって最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。
 自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。(p282)
 まとも側の岸にいたいのならば、多数決で勝ち続けなければならない。そうじゃないと、お前はまともじゃないのかと覗き込まれ、排除されてしまう。(p324)
 みんな本当は気づいているのではないだろうか。
 自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が”多数派でいる”ということの矛盾に。
 三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、”多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。(p324)
「多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考えの人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで”色々理解してます”に偏ったたった一人の人間なんだよ。(...)」(p337)
「いいですよね、誰にも説明する必要がない人生って」(中略)
「いいですよね、どうにかして生き延びるために選んだ道を、そんなの現実的に有り得ないって断罪されないって」(中略)
「あなたの言う現実で、誰に説明したってわかってもらえない者同士、どうにか繋がり合って生きているんです」(中略)
「そんな生活を、誰に説明したってわかるように作られた法律に搦め捕られるんです」(p372-373)

多数の側からは想像できないレベルのマイノリティの立場の人がいる。多数派中心の社会は、そういう人の存在にすら気づいていない。それにもかかわらず、「多様性」を唱え、少数者を理解し、支えているつもりになっている。

多様性とはいいながら、少数者の観点は、社会のマジョリティの側が理解できる範囲でしか理解されず、大多数の理解の到底及ばない本当のマイノリティは、結局、幸せにはなれないのではないか。

人間が社会で集団で生活していかなくてはならない以上、社会秩序が存在する以上、多数派も少数派も、全員がハッピーに自己実現ができる社会などは、夢物語にすぎないのではないか。

そんなふうに、畳みかけてくる。

登場人物たちのような、珍しい「欲」のある例は、かなり極端な例かもしれない。しかし、私たち一人ひとりにも、多かれ少なかれ、多数とは異なる思考の癖や、人に言うのをはばかられるような嗜好もあるのではないだろうか。そのために、孤独を感じたり、自己嫌悪に陥ったりすることもあるのではないだろうか。誰でも、いつかは、少数者の立場になり、登場人物のような苦悩を味わう側に立つかもしれない。そんなとき、正常な精神を保てるのだろうか。

そして、このネット社会において、容易にいろいろな人と「繋がり」を持つことができることの功罪についても考えさせられた。

今まで誰にも理解されなかったマイノリティが、理解者を広げるために、ネットを利用して、「繋がり」を持つことができるようになった。不登校の子供が動画配信で視聴者との交流に生きがいをみつけたように、誰でも自分の理解者と繋がることができるようになり、交流の範囲が広がったことは素晴らしいことだと思う。

他方、それが悪用され、社会に害悪を与えるプラットフォームとなってしまうこともある。そして、ネットでの繋がりを取り締まる必要が生じることもある。そんなとき、そのような繋がりの善悪を、きちんと判断できるのだろうか。多数の常識によって、本当は罪のない少数派の生きがいを犠牲にするような判断をしてはいないか。

読後は、全身がドーンと重くなるような、まるで酷い生理痛のときのような気分になった。気力を消耗するので、落ち込んでいるときや、元気が出ないときにこの本を読むのは、あまりおすすめしない。

(いや、もしかすると、落ち込んでいるときほど、こういう本を読んだほうが、「毒を持って毒を制す」となり、却って良いかもしれないか?)

私は、今まで、会社でも、プライベートでも、多様性を推進するような活動や主張をしてきた。しかし、今まで自分が思っていた「多様性」なんていうのは、真のマイノリティから言わせれば、ちゃんちゃらおかしい綺麗事、絵空事、茶番、偽善、だったのかもしれない。「お前はなんて単純な、おめでたいやつなんだ」と、嘲笑され、冷たく突き放されたような気持ちになった。これほどもやもやとした気持ちにさせられた小説は、久しぶりだ。

それでも、この作品に出会えて良かったと、心から思う。ショック療法で心をかき乱されたけれど、いやおうなしに、視野が広がった。理解しているつもりでも、実は理解できていなくて、理解すべきことが、世の中にはまだまだ沢山あるんだ、ということが分かった。

私たちの理解を超えるレベルの多様性の存在に気づくことができれば、私たちの社会は、より優しいものになると信じる。一人ひとりが全員100%ハッピーになるような社会は、到底実現不可能かもしれないが、他者を理解しようと少しずつでも努力をし続けるのが、社会を良くする第一歩だろう。気の遠くなるような、終わりのない旅かもしれないが、歩き続けなければいけないと思う。

ご参考になれば幸いです!

※私の過去の読書録記事へは、こちらのリンク集からどうぞ!


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