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女子校文学——川上未映子とaikoとコムギ

そこは勝ち負けのない世界だった。

ぼくは、男のくせに川上未映子が大好きだ。
あえて語弊のある言い方をしている。
フェミニストに喧嘩を売るような物言いだ。
※でも、怒らないでw その熱量でもっと大きな敵を倒してくださいw

これは、女性の世界という言葉を題材に男性の社会を影映しにしようという試みだ。フロイトとかラカンとかブルデューとかが定義した「男性」とすごく近い概念のことな気もするが、それはよくわからない。


なんせ本記事は、修士すらもたない29歳がお粗末な理解力でドリブンしたタイヤ痕のような記録だ。
したがって、参考文献も載せない。
理由はだるいから。
※このように、ぼくの杜撰で頭ごなしで主観的な考察を読んでやってもいいよって人だけお付き合いください。

川上未映子。
aiko。
そして、『HUNTER×HUNTER』蟻編のコムギ。

彼女たちの共通点は、人生の具体性である。
ぼくは、そんな彼女たちの世界観を女子校文学と呼びたい。
その世界観は、勝ち負けも競争もなくて、一人ひとりがオリジナルなカラーを発せる、誰もが人間らしくあたりまえの日常を送ることができる場所だ。


女子校文学とは


——女子校ってどんなところ?

しびれを切らした男子校の高校生がある時、女子校に通う姉にこう尋ねたことがある。

「女の園なんて言うけど、みんな荒々しくて男より男みたいな世界観よ。そこには、おっさんみたいな女がいっぱいいて、女同士で重いものを持ち上げて、力こぶつくってる」


こんなことを訊いてがっかりしたことがあるように思われる。
女子校は、女の園なんかじゃない。

もっとドロドロしていて、もっと血生臭いらしい。

実家から一番近所にある女子校の校門の前で、タバコに火をつける女子高生を目撃したとき、少年の女子校への幻想は一気に打ち砕かれた。

少年の女子校のイメージは、すっかり吉田沙保里や神取忍のような世界観になった。


それから、数年後。
少年は青年になっていた。
ある時、青年はジュンク堂で川上未映子の文庫本を手に取った。
「これが究極の恋」との講談社のキャッチコピーに釣られるままに、レジへ持っていった。


家に帰って『すべて真夜中の恋人たち』を一気に読んだ。
読んでいて、「これは女子校だ」、と胸が高鳴ったのをよく覚えている。

それは、上とか下とかじゃない評価の世界観で、競争や戦いではなく、個人がオリジナルな個性をのびのびと発揮しているカラフルな領域のことだ。何者にも脅かされない強い個の世界で、弱肉強食も支配欲も及ばない具体の世界の領域だ。

しかし、女子校文学は、完全な男子禁制という印象も受けている。
それは、資本主義システムやマウント社会に汚染された脳みそでは、入り込めない世界観でもあった。
——詳しく後述するが、これが女子校文学を経ての男社会の影映しである。


ぼくは、これを女子校文学と呼ぶことにした。
そして、この女子校文学という物差しで、aikoや『HUNTER×HUNTER』の蟻編を読み解くことで、より深く物語の深く味わえるようになるはずだ。


『すべて真夜中の恋人たち』

「これが究極の恋」
このキャッチコピーに対して、ジュンク堂のレジで買い物をするぼくは鼻で笑っていたと思う。

でも、読み終わったぼくは、「間違いなくこれは究極の恋だわ。いいから読めww」と親友にLINEしていた。

なぜこんなにも方向転換をしたのか。
それはみなさんにも味わってもらいたい。

話自体は単調だ。
ある冴えないヒロインが、冴えないおっさんに恋する話だ。
これでもかってくらいじっくりと心情の変化を描写する。
この心情の変化が、「ふつうの女の子の恋なんだろうな」という気持ちになった。
まぁでも、話自体はすごくシンプル。
出会って、お互いをわかり合って、恋をするまでのエピソードだ。

それなのに、こんなに”持っていかれる”。
それくらい川上未映子という小説家の影響力と文章力に貫かれた感覚だった。

なんというか、ぼくの中の人間味の部分に麻酔なしでグリグリされるような作品だったのだ。

そして、読了をとおしてぼくの中に意外な変化があった。
それは、

「あれ?
おれ男である(競争の中で戦う)必要がないのかも?
おれ男から降りてもいいのかも?」

どういうことか、もう少し具体的に説明する。


社会は基本的に男社会のことを表している。
ホモソーシャルというやつだ。

ホモソーシャルとは


男性社会(ホモソーシャル)の説明をします。
もともと日本では、社会は男性のものでした。
男はソトに出てお金を稼ぎ、女はウチを守るというのが古典的なジェンダーローロールです。
これを性別役割分業と言います。
この性別役割分業システムが機能している頃は、社会は男性だけのものでした。
女性はウチにいるからです。

しかし、そんな時代は変わりました。
幸か不幸か、女性もソトへ出なければならなくなったのです。
現代では、女性が生涯働くというのは、あたりまえと言っても過言ではありません。
つまり、女性にとって、専業主婦という生き方はもはや主流な選択肢ではなくなったのです。
そのため、現代は急速に女性を社会に迎え入れる構造に変革しています。
あらゆる制度が変わっています。
「ちゃん呼び」はセクハラになるし、「彼氏がいるの?」なんて質問も21世紀ではご法度です。
このように急速なルールチェンジが強いられるようになったのが現代社会というわけです。
でも、たまに、鈍感でご陽気なご老人が、時代の変化に気づかずに、悪気なくセクハラ的な発言をして度々炎上しています。
そうしたマインドがおじいちゃんな人が度々、紙面を騒がしているわけです。
彼らはイヤな奴などではなく、時代の変化に愚鈍なだけです。

しかし、こうした男性社会(ホモソーシャル)の残滓として、まだまだ無自覚なセクハラは日本中に散らばっています。
たとえば、「女子力」という言葉はその典型でしょう。
バンドエイドを持っていると「女子力高いね」なんて言われたりしますよね。
しかし、情報感度の高い女性にとってはその扱いは嫌悪感で生き苦しさの原因にもなります。
ただ、この言葉を発する男性には悪気なんて微塵もありません。
「褒めているのになんか不機嫌になったぞ・・なぜだ」と困惑すらしています。
繰り返しますが、愚鈍ですが、悪気なんかありません。

この悲劇は、男性社会(ホモソーシャル)の中に女性の居場所を急速に整えなければならなくなった際に発生するデバックのようなものです。
要するに、インストールに失敗して微々たるバグが発生しているわけですね。

こうした構造的な問題が、男女という仲を引き裂き、
ツイフェミを憎む非モテと非モテを憎むツイフェミという構造を産んでいるわけです。

ぼくは決して、女性に対して新入りなんだから謙虚にしろよとは言いません。
コピーにお茶汲みなんて断るべきだと思いますし、仕事の能力と性別は無関係です。
また、生理や妊娠に関しても、社会はもっともっと配慮を示すべきだと思っています。
むしろ、新入りこそ歓迎すべきであるし、組織の中でもっとも大切にすべきです。
なぜなら、新入りを優しく歓迎できるのは先にいた先輩にしかできないと思うからです。
新入りが「私たちを歓迎しろよ!」と吠えるのはよくわかりませんもんね。

ただ、女性の方でも、こういう構造変化のデバックに対して、「怒り」という感情で解決しようとするのではなく、優しく導くような余裕が必要なのかなぁと思います。

川上未映子を読むと「男」から降りられる

「男なんだからしっかりしなきゃ」
「男なんだから泣いちゃダメ」
「男のくせに」

これは、ぼくが自分にかけ続けていた言葉たちである。
ぼくの中の錆兎(鬼滅知らない人すまんw)が、



こう言ってくるわけである。
すごくつらかった。

そして、ぼくの場合は、炭治郎のように大きな岩を切ることなく(大きな試練を経験せずに)なんとなく大人になってしまったので、余計に自罰の感情(錆兎)が強かった。

しかし、川上未映子の『すべて真夜中の恋人』を読了して、ぼくは男から降りてもいいんじゃないのか?という気付きが得られたのだ。

長男という重圧から解法されて、もっと泣いていいし、もっと弱くていいし、もっと自由でいいことを教えてもらったのだ。

気づけば、ぼくの中の錆兎はにっこり笑って成仏していた。

男性社会に参加する「女」

しかし、ぼくの錆兎はにっこり笑っていたが、世の中の女性の中の錆兎はどうだろうか?

女の中の「男」?
と意外に思うかもしれない。

ぼくは、
現代は女性も「男」なのかもしれないと思っている。
なぜなら、現代の女性は複雑な教育をインストールされたはずだからだ。

親から「女らしくあれ」と同時に「強くあれ」とも教わる。
でも、社会では「女なんだから」と言われる。
つまり、<子どもを育てる母親としての役割>と同時に<キャリアをバリバリ歩み稼ぐ役割>が共存しているのだ。
それに加えて、<男から選ばれる女>は、男よりも弱くなければならない。
こんな歪さが、3方向に求心力を持ってバラバラに引き裂かれているのだ彼女たちのこころなのだ。

そのため、実は錆兎は男性の中だけでなく、女性の中にもいるというというわけである。

そのため、社会の中で「うらやましい」と思われることを誰もがSNSで発信するようになったとぼくは思っているのだが、それはまた別の機会に。

男も女も住んでる土地の高低差でマウントを取り合って、まわりを見下し、まわりをあざ笑う。
そういう奴がいるもんだから防衛もしなきゃいけない。

だからこそ、女子校文学という処方箋が必要なのだ。

女子校文学という処方箋——具体と抽象の狭間に揺れて

女子校文学に、比較はない。
川上未映子やaikoのような世界観だ。

『乳と卵』なんかは、ただただ大阪弁の会話がテンポよく進展するだけで、ストーリーらしいものは見当たらない。
——それなのに、そこにストーリーを見出させてしまうというのだから、川上未映子は天才だと言わざるを得ない。

aikoの描写力も具体的で独創的だ。
——aikoは女子の気持ちを表しているの?

※こう訊いてうなずかかった女子をぼくは一人も知らない。

彼女たちの作品の共通点は、「具体的な出来事の具体性を強調している」という点である。
あまりにも具体的なのだ。

対して、男性は「具体的な出来事を抽象化する」存在だとぼくは思う。
つまり、科学的なのだ。
あまりにも抽象的なのだ。

そんな梶井基次郎の『檸檬』のような作品が女子校文学の正体である。


この女子校文学が、社会の処方箋になる理由は単純明快である。

男性社会の正体は、抽象的だからだ。
男性社会は、私ではなく数字を積み上げる競争だ。


偏差値。預金残高。
高い年収。経験人数。

これら全部は数字にすぎない。


男性社会に生きることとは、自分を数字になっていくことなのだ。
比較されたり、比較したり、
見下したり、見下されたり、
そこに見えているのは、あらゆる「数字」だ。
何を根拠に見下してるのかというと「数字」を根拠に見下しているのだ。


だから、イマココを見失う。
人生が抽象化していってしまうのだ。

そこに具体性を付与して、イマココを全力で楽しむ回路を発達させなければならない。

それがぼくが考える女子校文学が処方箋となる理由である。

あなたは蟻の王か、メルエムか

※『HUNTER×HUNTER』の蟻編を読んだことない人はこのパートは読み飛ばしてください。(でも、読み終えたらまた戻ってきてね)

彼は、「蟻の王」という抽象的な存在になることではなく、具体的な「メルエム」としてコムギと最期のときを迎えたいと思った理由はなんだろうか。

それは、コムギという「女子校文学」に触れて、
コムギという具体的な一人とお互いをわかり合って、
メルエムという具体的な一人として最期を迎えたいと思ったからではないだろうか。

つまり、愛なんだよ。













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