「笑いについて」──東ブクロ少年の肩を持つ29歳現代文講師

このタイトルは壮大だ。

さらば青春の光として活躍する東ブクロが高校3年生のころに文集として発表したペラ1の金字塔である。

本論では、東ブクロ少年が書いたお笑い論に触発された29歳が、独自の視点のお笑い論を展開する目的で書かれたものだ。

したがって、東ブクロが放つ過剰な痛々しさと背伸びした文体への挑戦が、この論でもふんだんに盛り込まれることになるだろう。



東ブクロ少年は、お笑いには数種類あるという分類を試みていた。
この少年の慧眼は侮れない。

①面白くて笑う者②同調して笑う者③嘲笑として嗤う者④ただの笑い上戸

このような分類を付して、「笑い」と「嗤い」の緻密な定義分けが展開されている。
そして、議論は端折られて、あの余りにも有名な「だが、変人で結構」に接続するのである。

おそらく、ここには字数制限があったはずなので、このような中途半端な結論になってしまったのだと予測される。
実際に東ブクロ少年は、自分のお笑い論は「ほんの一部である」ことを明記しているのだ。
そこで、私(現代文講師)は東ブクロ少年の肩をもち、東ブクロ少年の議論を敷衍してさらなる議論に発展させたいと思う。
東ブクロ少年は、笑いという現象について言及しているが、そこでは4種類の分類分けが非常に見事であるためこれ以上付け足すものはない。

本論では、現代お笑いという芸術についての言及を試みたい。
この笑いの定義分けは昨今、話題になっている中田敦彦の松本人志への噛みつきとも連動しているのではないかと考える。

まず、ぼくもお笑いを定義したい。
これがお笑いだ、という宣言のようなものである。

お笑いとは、タブーへの挑戦ではないかと考える。
タブーとは、すなわち、日常生活の中でやってはいけないことである。


こんなことしたら、誰かを傷つけちゃうかもしれない。
こんなことしたら、誰かが悲しむかもしれない。
こんなことをしたら、誰かを怒らせるかもしれかい。


そのようなタブーを犯すのがお笑いの役割ではないかと私は考える。


道徳や倫理を度外視し、禁忌を犯してフィクションの中で、誰かを殺したり、誰かに強烈な不幸を味合わせたりする。
そうした人間の残酷さに折り合いをつけるのがお笑いの役割なのではないだろうか。


死がオチとして使われるコントとしては、
おぎやはぎの「野球観戦」のネタが有名だ。
野球観戦にきた小木と矢作。
ホームランボールに当たって死んだ小木を担ぎ、「スタンドバイミー」を歌いながら、墓穴を掘る矢作。
こうしたフィクションは、残酷極まりない行為で、お笑いというフィルターを通さなければ決して笑うことができない出来事だろう。
しかし、おきやはぎの技量と演技によって、見事にそれらは笑いに昇華されている。
卓越したスキルだ。

また、
インパルスの「貸したもの返せ」というネタのオチもこのタブーへの挑戦が表れている。

コントの冒頭で、板倉は堤下に対して「アメリカ好き?」と聞いて、好きだと答えるなり、土足で上がるというプロットから始まる。
そして、板倉が堤下に借りたものを次々に返すのですが、どれも不本意な形で返却される。
本は破け、CDには傷がつき、彼女は寝取られる。
それらを「返す」という行為によって堤下を絶望の淵に陥れる。
そして、ラストが衝撃的で、カバンから拳銃を取り出して、躊躇なく堤下を撃ち殺す。「アメリカ好きって言ったじゃん」というセリフとともに。


このコントも日常生活からの過度な逸脱が表現されている。
これだけの理不尽を「笑える」人間の脳の残酷さは常軌を逸している。


これ以外にも、
バイきんぐの「友人の葬式」
さらば青春の「葬式」
バナナマンの「ルスデン」
空気階段の「自殺」

などもタブーを抱腹絶倒の笑いに変換している作品だ。
合法違法を問わずにこれらの作品は、ネット上で探せば出てくるはずなのでぜひ見てもらいたい。

このように、彼らは観客の笑いのために、タブーへの挑戦を続ける狂気のアーティストなのだ。

狂気のアーティストという言葉で、紹介しないわけにはいかないのが、岩崎う大と水川かたまりだ。
それぞれかもめんたると空気階段の頭脳担当である。

彼らの逸脱した笑いは、観客の度肝を抜く。
それぞれがキングオブコントのチャンピオンに君臨した経歴を持つが、その独自性はまったくの唯一無二の存在だ。

特に、空気階段はラジオのトークも面白い。
コントとラジオの両輪であれだけの人気を獲得している。ゆくゆくは、第七世代の台風の目となるだろう。

天才的な頭脳の水川かたまりが提出した叩き台に鈴木もぐらのセンスが加わって完成されるネタつくりのあり方も、独特だがどのネタも洗練されて面白い。


また、コントと言えば絶対王者東京03も忘れてはいけない。
人格者飯塚と演技派の角田と2人でネタつくりをするという。(オークラの引き込まれるストーリー展開のネタもある)
彼らのコントは、ほとんどがあるあるネタからの派生だ。


こういう人いるよね
こういう状況あるよね

というちょっとした痛々しさをもった大人に対して、あえて触れてみるという構成である。


東京03の笑いは、テレビではできない長尺だ。しかし、そのハンディキャップを乗り越えて、4分のネタにまとめて優勝したキングオブコントは素晴らしい。

彼らのすごさは、長尺ネタにも関わらず、観客を集中させちゃう間の取り方と気迫をともなう演技力と間に挟まれるアドリブ力の高さである。

数千人規模の会場を満員御礼を達成する人気は、他の追随を許さない。

彼らの挑戦を見ていると、
お笑いはタブーを擬似体験し笑いが出力されるというアートなのだ、ということが身に染みてよくわかる。


このように、お笑いはあらゆるタブーへの挑戦という読み解き方をすることで一つの定義わけが可能である。
もちろん、タブーへの挑戦以外の笑いも存在する。
狩野英孝や黒ちゃんへ向ける笑いは、明らかに天然を「嗤う」構造である。
ハリウッドザコシショウや野生爆弾のくぅちゃんの笑いは、予想外が裏切られる笑いの典型である。
あるいは、オードリーの春日のトゥースのような笑いは、予定調和と安心の笑いだ。
また、南海キャンディーズの山里が得意とする現象へのタイトル付けの笑いもあるし、ナイツの塙が得意とする小ボケの連続によるクスリとした笑いもある。
そして、オリエンタルラジオの中田敦彦が言うように、知性を必要とする笑いも存在してもいいだろう。


このように、お笑いというアーキテクチャは、多元的な構造を有している。
各々が得意とする笑いで挑戦することができる世界なのだ。

せっかくお笑いは、多元的で懐の深いアーキテクチャを有しているのだから、
笑いの定義でひとつのピラミッドをつくるよりも複数を設けた方が面白いのではないかと私は考える。


結論としては、やはり私もこのような論を展開して変人だと思われてしまうかもしれない。
だが、「変人で結構」である。


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