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謝罪ハラスメント──「ごめんなさい」を使って相手を支配しようとする人たち

「ごめんなさい」
「すみません」
「申し訳ありませんでした」

日本人のぼくらは、何回この言葉を口に耳や目にしただろうか。
言うまでもなくこれらの言葉は、謝罪の言葉だ。
謝罪とは、自分に非があったことを認めて謝ることだ。
そして、もう二度と同じことを繰り返さないという誓いの言葉でもある。
ぼくが参考にしている謝罪のルールは、漫画『HUNTER×HUNTER』の登場人物、ジン=フリークスの謝る時のルールだ。

しかし、現実に直面する謝罪は、ジンのような誓いではなく、もっとラフでもっとライトなものだ。

現代社会は謝罪があまりにもありふれた言葉となっているため、謝罪は「これ以上責めないで」という防御呪文の役割になっていることがあるのではないかと、ぼくは思う。

実際にあなたのLINEのトーク履歴の検索機能を用いて「すみません」「ごめん」と検索してみてほしい。
それはあなたがこれまでにもうこれ以上責められないための防御呪文を使った数なのかもしれない。

ぼくはそんな現象のことを、ひそかに謝罪ハラスメントと名付けている。
今回のテーマは、『謝罪ハラスメント──ごめんなさいを使って相手を支配しようとする人たち』だ。

特に、反射的に謝罪のことばが出てしまうあなたにとっては、関係のある話なのかもしれない。



エラソーにこんな説教みたいなことを言っているが、
「もう責めないで」の謝罪呪文をこれまで何度も使ってきたのは、誰よりもぼく自身なのだ。
当事者として、この問題と積極的に向き合いたい。
したがって、この文章は、「あなた」という読者に向けて書いているつもりでいて、過去のあるいは現在進行系のぼく自身に向けて書いているのだ。

恥ずかしい告白をする。
ぼくも親や彼女と喧嘩するとすぐに謝罪の言葉を持ち出していた。
いや、会社の学校など、あらゆる環境でぼくは謝罪の魔力を使ってきた。

「もうしません」。そんな言葉だけの謝罪を何度も繰り返してきた。
もちろん「もうしません」の誓いは守られることはなかったので、自堕落で自己チューなぼくができあがった。
これまでしてきた「もうしません」が、もしも全部達成できているのならば、今頃、灘高校を卒業後ハーバード大学へ入学して、芦屋市長にでもなってなければおかしい。

それくらい大袈裟な謝罪と今後はこうしますというできもしない誓いを立てて、「今この場でこれ以上責めないで」とやり過ごしていたのだ。

怒られそうになると、すぐに謝った。
怒られる前に、謝ることで逃げた。
そして、反省もせずに同じようなあやまちを繰り返した。

この謝罪という防御呪文はとても効果的だった。
現に、本当に誰もぼくを責めてこなくなるからだ。
今考えれば、ぼくぼくの謝罪の上っ面さに嫌気がさして、みんな蜘蛛の子散らすように去っていっただけだったのだが、
当時のぼくは、自分の正しさが証明されたと思っていたように思う。

現代は、加害者が不利な時代だ。
パワハラやセクハラの被害に遭うよりも、
パワハラやセクハラの加害者になる方がよっぽどキツイ社会的制裁が待ち受けている時代なのだ。
※パワハラやセクハラを正当化しているわけではありません。

つまり、被害者という覇権を獲得するために謝罪というのは効果的で鋭利な武器なのである。
だから、ぼくは謝罪の乱用はハラスメントだと思うのだ。

自分が変わる気のない謝罪は被害者への特急券なのだ。
ぼくが被害者になれば、誰かが同情してくれる。
そんな同情はしょせん傷の舐め合いなのだが、舐められてる時は心地が良い。




誰も責めて来ない環境は快適だった。
自分の人生に不正解をつけてくる人間がいないのだから、快適この上なかった。
そうするとさらにこじらせる。
自分の中の間違いを指摘する人間は、あまり本を読んでない人間の言葉だから聞く必要なんてない。とか
お前にも間違いがあるのにそれを棚に上げてよく人に指摘できるよな。とか
そんな自意識の亡霊が、さらにその壁を堅固に塗り固めていった。
自分を脅かす存在が誰もいないのだから。
しかし、それは最初のうちだけだった。

要するに、だんだん寂しくなったのだ。
孤独の塔でデーンとエラソーにしていたが、誰もぼくと関わろうとしてくれなくなった。


この孤独の塔でぼくは、うんと考えた。
この塔の正体はなんだったのだろうか。


ぼくが守っていたのはプライドだった。
自意識でこじれ、こんがらがったプライドを必死で守ろうとしていたのだ。
自分ですら触れないようにしていたプライドに、
誰かが土足で踏み込んでくることが本当に許せなかったのだ。


だから、ぼくは謝罪という防御呪文を取得した。

「わたしは、あなたのここを直してくれたら、もっとあなたと楽しくいられる」
という提案をはねのけて、「ぼくには変わりません。ぼくを理解できないのは、あなたの頭が悪いからです」と突っぱねていた。

——本当は誰よりもそんな自分の頭が悪いのにね。史上最低のバカなのにね。かわいそう。

でも、ある時、
気がついた。頭の悪いぼくもやっと気がついた。

ぼくに改善の提案をしてくれるのは、
あなたのすべてが嫌いというわけではなく、その部分を改善してくれたらもっと一緒に居続けることができるという願いだということに。
そのためには、自分のプライドと折り合いをつけなければならないし、自分のこころの傷口を見つめなければいけない。
しかし、そんな痛みを乗り越えた先にしか他者との共存はないのだ。

現代社会は、文字通り快適だ。
自分に苦手なことやメンドクサイことがあれば、たいていお金を払えば誰かがやってくれる。
さらに、ひじょうに流動性の高い。
つまり、現代は自分は変わらなくていい理由でありふれているのだ。お金を払えば誰かがやってくれるわけでし、「変われ」という要求が嫌なら相手を変えちゃえばいい。
そのためのシステムも確立されている。
それは、指先のスワイプでカードを高速でLIKEとNOPEにふりわけるあのアプリに象徴されている。
じぶんが変わるより、じぶんに合わせてくれる相手にチェンジしてしまった方がコスパがいいのだ。

それは、職場であってもそうかもしれない。
それには一定の合理性があるのかもしれない。
自分は変わらず、相手を変えることは、過剰流動社会の生きる処世術なのかもしれない。


しかし、変わらなければ、ダメなぼくは一生ぼくのままである。
相手を変えて、嫌いなぼくが登場しなくなっても、
ダメなぼくは一生変わらず、そこにいるのである。

だから、変わりたい。
変わることで、その人と居続けることに意味を見出したい。
だから、ぼくは謝ることよりも感謝を伝えたい。


「ありがとう、頑張ってみるね。ダメなぼくはなかなか変わらないかもしれないけど、頑張ってみるよ」


こんな心情の変化を経て、ぼくは謝罪の呪文を使うとき、
ジン=フリークスのルールを参考にするようになったのだ。


ちなみに、ここでぼくが書いたことをぼくなんかよりもずっと上手に歌詞にしている人がいる。
それが、BUMP OF CHICKENの『ハンマーソングと痛みの塔』である。
知らないという人は、ぜひこの曲を噛み締めながら聞いてほしい。

お集まりの皆様方 これは私の痛みです
あなた方の慰めなど 届かぬ程の高さに居ます

きっと私は特別なんだ 誰もが見上げるくらいに
孤独の神に選ばれたから こんな景色の中に来た

どんどん高く もっと高く 雲にも届け痛みの塔
そのてっぺんに あぐらかいて 神様気分の王様

作詞:藤原基央 作曲:藤原基央 編曲:BUMP OF CHICKEN


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