マガジンのカバー画像

私が大切にしていきたい価値観

33
運営しているクリエイター

#スキしてみて

永遠の思春期

今日は少し疲れたので勉強は早めに切り上げ、久々にnoteの記事でも書こうと思い、書き途中の記事を一つ一つ読んでいた。 どれも、今日の私の気分にはそぐわない内容だった。 「やっぱり今日は満足のいくnoteの記事は書けないかもな」なんて思った時に目に止まったのが「永遠の思春期」というタイトルだった。 記事を見てみると、白紙だった。 タイトルだけ考えて、そのままにしたものだったみたい。 でも、「永遠の思春期」ってなんだか、自分を映し出している言葉のようで、とても惹かれる。

自分にとってのサクセスストーリーとは?

自分にとってのサクセスストーリーとはなんでしょう? ・社会的ステータスの高い仕事を得ること? ・お金持ちになること? ・結婚して子供を持つこと? 世の中には色々な「サクセス(成功)」の形があるかもしれません。 しかし、社会的に理想とされるサクセスストーリーを描ける人は、この世の中にどのくらいいるのでしょうか? 私は「実際のところ、全ての物事が自分の理想通りに進むことはない」とよく思うのです。 きっと、サクセスストーリーとして描かれている話は、一部が切り取られているだ

"Bilingualism is Great!"は本当か?

複数言語を流暢に使えるようになったら どんな世界が見えると思いますか? それは、それは、世界がとても広くなることでしょう。 英語ができれば、きっと世界中、色々な国に行っても言語で苦労することはないかもしれません。または、日本には留まらず、学校も就職先も、そして将来のパートナーまでも、世界規模で考えるようになるかもしれません。 もし私が親であれば、そんな世界を子どもにも見せてあげたいと願ってしまうでしょう。 私はバイリンガル今の私は、社会的にバイリンガルとして認められる

思い出を共有できる幸せ

嬉しかったこと 悲しかったこと 頑張ったこと あなたには、そんな思い出を一緒に振り返ることができる相手はいますか? 私は、もし人生でそんな相手を一人でも見つけることができたなら、きっと素敵な人生になるような気がするんです。 だって、楽しかった思い出を共有できる相手が一緒にいることって、お金持ちになることよりも、社会的な名誉を得ることよりも、何よりも幸せなことだと思うから・・・。 渡英前、最後のお寿司屋さんで・・・この文章を書いている私は、今イギリスの大学院で博士課程の

トイレは文化だ!

私には一風変わった趣味があります それは、世界各国のトイレの写真を集めることです。 え? 変態だと思いましたか? 私は例え、そのように思われても平気です。 物事、変態くらいがちょうどいいと思っています。 なぜならば、変態なくらい物事に興味を持てると、身近なものでも、じっくりと考えたり、観察したり、調べたりするからです。 そうすると、今まで考えたこともなかった世界が見えてくる可能性があるような気がしています。 初めてフィリピンのトイレを使った日「フィリピンのトイレはと

英語と向き合う日々

「英語と向き合うこと」は「修行」と似ている気がする。 私は英語学習という名の修行を、仕事を辞めて歩む決断をした過去がある。 それは、今から約4年前のことであった。 そして、約1年という歳月を、私は英語学習に注ぎ、なかなか伸びない自分の英語力と一人で向き合っていた。 その時の私の気持ちは、まるで出家した僧侶の気持ちと似ている気がした。 そんな漠然とした疑問を抱えながら英語と向き合う日々。 それは孤独との戦いだった。 いつになったら英語ができるようになるのか?それに

心の扉

今あなたは何を思っていますか? 少し、自分の心に耳を傾けてみてください。 そして、今思っていることを一言、一言、言葉にしてみましょう。 人によっては、自分の思っていることを言葉にするという行為は、意外にも難しいことであると気づくかもしれません。 でも、そんな自分の心の扉を少しだけ開けてみると、新しい自分が発見できるかもしれないです。 自分の心に耳を傾ける ーーーー 今日は寂しい気持ちだ。 なんだか分からないけれども、涙が溢れてくる。 今日は、とっても気分がいい。

「〜として」生きることから距離を置く

女として。教師として。親として。 私たちは、よく自分自身の立場や、環境によって、「〜として」の振る舞いが求められることがある。その中で、私たちは世間が思う空気のような「〜として」の規範に従うように、行動選択やふるまいを変えていく。 しかし、「〜として」という規範は、どこで生まれ、どうして私たちは、その規範に縛られているように感じてしまうのか? 私は疑問で仕方がない。 そんなことを考えている私も「女性として」「元教師として」というフレームワークに固執してしまうことがある

今を大切にする心

いつの頃からだろう。 私は「今」に価値を置くようになった。 それまでの私は、未来のことを見据え、せかせかと過ごしていた。まさに「将来のために今を生きる」という言葉がピッタリと当てはまるほどだった。 当時の私は、今という時間が未来の自分のために存在しているかのように感じていた。 だからこそ、今大切にすべきことや、今の環境というものを少し疎かにしてしまっていたのかもしれない。 未来への不安 将来のために今を生きている時の私は、常に不安な気持ちでいっぱいだった。 起こり

見えない努力

ーー残暑が残る9月の初旬。 そろそろ、朝晩の冷え込みが激しく、長袖を羽織らなければ風邪でも引きそうな空気だ。 そんな秋の訪れを感じながら、外の太陽の光に照らされ、最後に残ったセミがジリジリ声を張り上げながら鳴いている。 まるで、夏の終わりを名残惜しそうに感じているみたいだ。 外を眺めると、いつの間にかトンボが至るところで舞っている。そんなトンボを見ると、太陽の日差しは暑けれど、なんだか秋を感じる。 そんなセミの喚き声と、優雅に空を舞うトンボを見ながら、少し冷たい風を感

「役割社会」の中のわたし

女として、教師として、親として、大人として・・・ 私たちは、よく自分自身の立場や、環境によって、「〜として」の振る舞いが求められ、「〜として」という役割に従うように、自身の行動選択やふるまいを変えていく。 このような社会を私は「役割社会」と呼びたい。 人々は、当然のように「〜として」という言葉を使うが、私にはそれが、幻想のように聞こえてしまう。 ・「〜として」という規範は、果たして、どこで生まれるのだろうか? ・どうして私たちは、その規範に縛られてしまっているように感

たばことお酒と父と母

私は、たばこを吸ったこともなければ お酒は全く飲めない。 仕事をする上で、お酒は飲めた方が良かったりもするのかもしれないが、私は、その日の体調次第で、すぐに動悸がして具合が悪くなってしまう。 「とっても付き合いの悪い体で生まれたものだ・・・」 なんて思ったこともあったが、たばこやお酒には、あまりいい思い出はないから、こんな体質に生まれてきて良かったとも感じる。 たばこと父と母私の父は、40代半ばまで、たばこを吸っていた。煙をもくもくさせながら、たばこを吸っている父を横

できなかった自分を責めるのではなく、できた自分を褒めてあげよう

私たちの生きる世界は 毎日淡々と日が登り日が沈む。 そして、季節は少しずつ変化していく。 環境の変化は、やんわりとしたもので、私たちが気付こうと意識を向けなければ、きっと、その些細な変化には何も気づけない。 毎日の忙しさに神経を尖らせ、今日という日が、3ヶ月も1年も先のために生きてしまっていては、きっと、冬が訪れたかと思うと、いつの間にか秋くらいになっている。 そんな時間の流れの感覚と 成長していないような 自分自身のあるべき姿の差に きっと 人は落ち込んでしまう日も

相手を思いやる気持ち。20万円の時計のプレゼント

ーー2021年海の日。 私はいつものように朝起きて、食パンを口にしていた。 そんな私に、突然母がこう言った。 今日、牡蠣を食べに行こうってお父さんが言ってる。 「っげ!!牡蠣を食べに3時間のドライブ!?」 「しかも、それをその日の朝に言う?!」 なんて、心の中でふと思ったのだが、父のやる気がある日ではないと、母を連れて3時間のドライブなんて行けるわけもないので、すぐさま私はうなずき、3人でドライブへ行くこととなった。 私は後部座席に乗り、父の運転に身を任せながら・・