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英語と向き合う日々

「英語と向き合うこと」は「修行」と似ている気がする。

私は英語学習という名の修行を、仕事を辞めて歩む決断をした過去がある。

それは、今から約4年前のことであった。

そして、約1年という歳月を、私は英語学習に注ぎ、なかなか伸びない自分の英語力と一人で向き合っていた。

その時の私の気持ちは、まるで出家した僧侶の気持ちと似ている気がした。

いつになったら満足して英語ができるようになるだろうか?

そんな漠然とした疑問を抱えながら英語と向き合う日々。

それは孤独との戦いだった。

いつになったら英語ができるようになるのか?

それにしても、英語学習とはしんどい道のりである。いつになっても、全く英語ができるようになったという感覚にはならない。

でも、少し異なった角度から考えてみると「英語ができる」という概念は、人それぞれ感覚の差が大きいと思う。

「英語ができる」 という定義を

  • 外国人と話せるようになるまで。

  • 英語検定試験で、ある程度の点数が取れるようになるまで。

  • 海外の大学院で授業を受けられるようになるまで。

と捉えるだけでもだいぶ求められる英語力が変わってくるであろう。

では、こんなことを考えている私は、どうなのだろうか?
満足して英語が話せるようになったのか?と言われると・・・

確かに、英語は話せるようになっているとは答えられるものの「日本語のような自由さで」英語を話せるようになっているとは言い難い。

そして、私は自分の英語力をまだまだ不十分であると感じているし、きっと私はいつになっても、自分の英語力には満足しないのかもしれないとも思っている。

英語と向き合うことは自分と向き合うこと

面白いもので、英語と向き合うことは、ただ英語という言語と向き合うことではなく、自分自身と向き合うことのようにも感じる。

だからこそ、英語学習は修行と似ているわけなのだ。

  • 自分はどのように英語の勉強に取り組みたいのか?

  • どのくらいの英語力が欲しいのか?

  • なかなか伸びない英語力と向き合いながら、どのようにモチベーションを維持するのか?

そんなことを悶々と考えながら、日々学習を続けていくプロセスは、しんどい。でも、この繰り返しこそが、自分と向き合うことに等しいと感じるのだ。

私にとっての英語

私は、きっと、一生、自分の言語力には満足しないと思う。
いや、違う。私は、そう思うべきだと思っているのかもしれない。

なぜならば、第二言語とは勉強を辞めてしまったその日から、私たちの記憶から少しずつ抜け落ちてしまうものだと思うからだ。

どれだけ英語の勉強に時間を割いても、どれだけ英語を使って仕事や勉強をしてきた人生を送ったとしても、第二言語はどうしても失ってしまいやすい。

しかし、なかなか英語力が伸びなくて涙を流すほどまでに努力して習得した英語という言語は、確実に私のアイデンティティの一部になっている。

その英語という私のアイデンティティを失うということは、なんだか、自分が自分ではなくなってしまうのでないかと思うくらい切ないことなのだ。

そう考えると、私にとって英語学習は自分らしくあるための、修行の道のりなのかもしれない。だからこそ、一生辞めてはいけないのだ。

私の人生にずっと寄り添い続けてきた私の英語力。

英語とは私にとって学び続けたい
人生の課題の一つなんだと思っている。

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