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人魚の涙 26

 入院は大仰おおげさに過ぎた。
 元来が海の男である。
 しかし私は神門さんに入院を勧めて、更に当直を希望した。
 彼の病室は6人部屋ではあるが、5床は空きベッドで個室に近い。
 そこへ当直医としては逸脱行為ではあるが、消灯前に病室に向かった。神門さんは既に点滴も外されており、iPadで何かを読んでいる様子だった。
「ご加減はいかがですか?」
「いや退屈で堪らないよ、帰れるなら直ぐにでも退院するよ」
 萎びた声音で、彼は分厚い胸板の上にiPadを伏せた。
「ともかく緊急浮上の判断をしてくれてありがとう。こちらがプロだっていうのに面目ない」
 苦笑いを浮かべ、逡巡の間を刻んで、彼は尋ねた。
「なあ、アレは一体何だったんだろうな。それを話したくて来たんだろ」
 口元は苦笑いのままであるが、目線には硬いものがある。
「・・昔話になるんですが、私も会ったことがあるんです」
「会った・・会った、か。それは何度も見たということではないんだな」
 鋭い舌鋒が打ち下ろされてきた。
 ここで告解するべきかを悩んだ。
「会話が出来るんです、彼女と」
 彼は両眼をつむり、記憶を探り始めた。
「あのクレバスな、引込み潮流があって。いや潮流ってもんじゃなくて、足首を捕まえて呑み込むような強さでな。逆らえなかった。内部はかなり広くて渦を巻いていて・・」
 そして内部が蒼く輝いていた、と彼は言った。
 その光を遮る形で彼女がすぅと現れたという。
 渦に翻弄されている彼を抱き止めてくれたと。
「レギュレータが外れていてな、それを咥えようとしているのを不思議そうに眺めていた。しかしな、アレにはちゃんと乳房がある。明らかに哺乳類だ。鰓呼吸でもない、肺呼吸の筈だ」
 畳み掛ける口調に熱がこもっていた。
「彼女はレギュレータからのエアを吸い込んでは、貴方に口移しで送っていましたよ。理解はしている筈です」
「だよな。かなり生臭かった覚えがある」
「会話・・会話と言ったな」
 彼は上体を起こし、薄いベッドの上で胡座をかいた。
「ええ、イルカなどの水棲哺乳類は、後頭部にある噴気孔を微細に震わせることで唄を歌います。それを反響定位エコロケーションというんですが。そして私自身が聴覚が広くて、その高周波の領域が通じるようなので」
「それは日本語なのか?」
「いえ、何というか。肌感覚で意味が分かるというのか。意識が共鳴するというか、ともかく言語とかではないんです」
「おれのことは、どう感じていた?」
「恐らくは《まだ生きているか》という問いで」
「人魚はひとを喰うと、爺さん達は言っているが、中々いい女じゃないか」
 無精髭を撫でながら、彼はそう呟いた。


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