長崎異聞 39
出迎えの馬車が来た。
天蓋にも丹念な彫金の為された客車を引き、黒駿馬の二頭立てで現れた。
その客車の扉に刻印された紋章が、かのダルボン卿のものであろう。葡萄酒の杯を、両脇から一角を持つ馬が支えている意匠で、余りの精緻さに眼が痛くなる。
あれでは遠目では馬印と認めるのも大変だなと、橘醍醐は考えた。
その客車には例の執事が同行するようだ。それで門司租借地まで、此度の件についての外交談判となるのである。
昨夜に届いた封書の蝋印を解いて確認すると、正使はユーリアでありその警固として蔵六が充てられた。そこに丸菱社員を警固に就かせる目算であったが、先手を打たれたようだ。
「すみません、差し出がましいことを致しまして」
ユーリアは件の晩餐会において、己の出自を明かしたという。
その家名の所以で同家との軋轢を惧れ、醍醐に決闘すら申し込んだマルク男爵はその溜飲を収めたのである。結果として正使が彼女となり、老齢ではあるが蔵六が警固の侍、としての入国が認められた。
「何構わんさ、儂は飾り物で結構。却って談判に煩わされることなく、それで検見の機会が増えればなお良し」
と彼は意気軒高である。
ユーリアは大輪の白薔薇が咲いたかのようなドレスを纏っている。さすがに蔵六もお仕着せの洋装を為しているが、彼女に比肩するまでもなく小男でありいかにも従者然としていた。
緊張のせいかユーリアは蒼ざめた頬で、醍醐に微笑んでいた。それでも見送るのみで手立てはなし。真一文字に引いた唇に決意が溢れている。
ああ。
異国で白皙の女性であるが、侍であると。
高潔な魂をお持ちであると、彼は見惚れてしまう。
やがて正使と警固の侍は車中のひととなる。そして蹄が石畳を蹴る音と供に、埃を巻いて欄干橋を通過していく。
その向こうに検問の鉄門扉がある。
厳重な警護が為されていて、醍醐の入国にはやたら時間を掛けていたが、今回は難なくと通過していった。
それを彼は対岸の居留地で、蹄音が街に沈むまで見送っていた。
夜半に汽笛が鳴った。
その直前には覚醒させられていた。
扉を蹴破らんばかりに、既に丸菱の下吏の者が飛び込んできている。
「何事か」と醍醐は寝台から跳ね起きてそう訊いた。
軍服を着用したまま仮眠していたのだ。
二人が門司租借地へ入国して以来、臨戦態勢の覚悟でいる。
「船が戻ってきます。高雄丸が」
彼はそう告げた。
「まさか仕掛けてはこまいな。連絡はあったか」
「いいえ」
「自走か、曳航舟か」
「どうも曳舟のようでございます」
「では先ほどの汽笛はどちらからか」
「あの音色は高雄丸でございます」
とまれ靴を履いて駆け出していく。
海面を黒々とした巨大な船影が滑り、岸壁に迫ってくる。
搭載されていた艦砲は陸揚げされて、倉庫に擬装して隠してある。武装解除された只の貨物船ではあるが、陸戦部隊は乗せられる。
兵があるやなしや。
敵意はあるやなしや。
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