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長崎異聞 46

 勝敗は始まる前に決していた。
 鬼軍師の掌中で藻掻くのみだ。
 夕闇が薄明となり、それを市街地の火災が天を焦がしている。火勢は漸く静まりだした。黒煙は居留地にも流れている。戦さ場の臭いである。
 仏蘭西守備隊の、反撃斉射は封じられた。
 派手に腔発こうはつを起こし、砲身ごと兵数名が血風となり、肉片に引き裂かれるのを目撃したのだ。その砲を遺棄して新たな砲を据えたものの、次弾を撃つのは恐怖が先に立つ。

 炸薬は、我々から強引に接収したものである。
 元々はグラバー卿が輸入して、四半世紀近く死蔵されており、変質したものだ。それをオルト卿からの貨物としてこの門司港に持ち込んだ。
「通関書類はどうなっておるのです」
 先刻、暴発を目撃した折に橘醍醐は問うた。
「その履歴を含めて改竄かいざんされておるよ。江藤新平の仕事に抜かりはない。また連中も盗み取った上で言い出せるものかよ」
 だがオルト卿への風当たりは想像できぬ。彼に騙された、大浦お慶の積年の憤懣ふんまんも晴れることであろう。
 そうして醍醐は、搦め手の守備を一任された。

 跳ね上げ橋を渡橋したのは、民間人のみであった。
 積層の土嚢の傾斜により、牛歩の如き鈍さだった。
 数人は武器を置き、軍服を脱いで下着姿の兵もあったが、容認した。
 これらの避難民は丸菱兵らに誘導させている。橘醍醐はその場で刃を鞘に収め、ユーリアと居並んでいた。
「戦争というものは恐ろしいものです」と彼女は言った。
「そうです。ですからるからには勝たねばならぬ、との大村卿の言です」
「あの海から上陸したお侍らはどちらの軍勢でしょうか」
「防府く・・長州兵とのことです。彼らを動かすために大村卿は旧名をとり、水面下で謀り事を行った由に」
 防府崩れと言いかけた。其の呼称は今後は自戒せねばならぬ。現時点では彼らが占領した東マルセイユ、つまり門司港をこちらに接収せねばならぬ。
 成程、長崎奉行所に江藤新平卿が滞在していた理由、に得心がいった。
 これから法理をもって、あの租借地は切り刻まれて、いずれは日本共和国へと返還に至るであろう。

 先方に動きがあった。
 この居留地に掛けられた橋が巻き取られていく。
 操作しているの兵の背格好は、長州兵のようだ。陸続きでなくなったのであらば、この陣地は丸菱兵に任せてもよかろう、と両人は踵を返した。
「皆さんはどちらに避難したのでしょうか」
「保税倉庫に天幕と毛布を準備しております。恐らく大村卿はあの葡萄酒樽を開けて存分に振舞っておるでしょうよ」
「蔵六さまは、恐ろしい方です」
 然しながら御味方とすれば、頼もしい軍師である。かの避難民も接収交渉の材料となるのであろう。倉庫の下準備を醍醐は見知っていたので、軍装のない事を念入りに確認して、降伏を受け入れた。

 さてもさても。
 大村益次郎は上機嫌で執務室にいた。
「さて貴君、初陣は如何であったか」
「感謝の誉れの一言でござる」
「命を殺めたか?」
 いえ、と口籠った。
「恥じいる事はなし。一兵も喪うこともなく難局をよくぞ裁いた。いずれ戦の習いを痛感することもある」
 彼は立ち上がった。
 では乗り込もうか、と散歩に出るかのように誘った。
 行く手には門司港より跳ね上げ橋が架橋されていた。
 その先は敵地と同義である。
 
 
 

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