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【エッセイ】今日は絶対に定時で退勤するから

雨、目黒駅。

行く約束をしていた東京タワーの展望台も、数日前から食べたいと二人で嘆いたモスバーガーも終わってしまう。駅までを走って、駅からも走っても閉店作業は見届けられるが、客になるには間に合わない。それくらいの時間。

この日、もう4月だというのにあたしはインナーに薄手のヒートテックを選んで出かけていた。

夜の東京タワーが見たかった。

だけどあたしは、ねえ、とメッセージを打つ。
この雨じゃ今日じゃない方が賢明かもしれない、と。今日は絶対に定時で退勤するから!と友人が強気でいたのをよく知っていた。

ずっと死にたかった。

「頑張る」を邪魔する鬱や、「頑張れた」を否定する躁。あたしってどんな人だったっけ。病気をアイデンティティにしてはいけないと言うけれど、そこそこ短いスパンで絶望と希望に翻弄されてしまう脆弱な心身との付き合いも、8年目を迎えると何が普通だったかがもう分からない。真夜中に泣きながら死にたいと電話をくれた大学の友人たちからはもう、そんな連絡も来ない。あたしが休学をしている間に先に社会人になった彼らと、気付かぬ間に疎遠になっただけかな。それだけのことなら良いのだ。だって連絡先を知っている以上、あたしは思い出したとき、いつでも彼らに元気?と聞けるのだ。彼らの希死念慮が消えたのであればもっと良い。だけど置いていかないでよ、と思うずるい矛盾。

昨年の終わり頃、恋人との同棲を解消した。今年の初め頃に別れた。未来の構想は呆気なく空っぽになった。空っぽになってもあたしは、彼と積み上げたものの全てが無駄だとは思えなかった。あたしの中でいつも正しかった彼が選んだ別れなら、それすらも正しい、と。彼と暮らした町も大好きだったけれど、彼の温度を感じる景色が変わってくれないのならあたしが去るしかない。会うことがない限り、知り尽くしてしまった彼の生活がまだそこで営まれていると思い込めることが救いになる。
よかったね、これで愛した彼のままだね。

彼といることを選んで夢のままにしておいた、数えてみたら意外とあった「やりたいこと」たち。次の住処も何処にしようか。これからの生き方の殆ど全てを選択できる状況を手にして、逆に路頭に迷った。大学最後の春休みは、逃げるようにして毎週違う場所で寝泊まりして生き延びた。そうでもないと簡単に死を選んでしまう恐ろしさが付き纏った。
それでも桜が散った頃にやってきた希死念慮には、今度こそ本当に勝てない予感がしていた。じゃあ、せめてお金を使い果たしてでも抗ってみようか。あたしが過度に信じてしまっている愛読書、江國香織の東京タワー。透くんと詩史さんが見たであろう景色を、あたしも拝もうどうせ死ぬのなら。


20時10分。目黒駅で立ち往生していたあたしのポケットがやっと震えた。友人から退勤の旨のメッセージ、続く二言。

行こう!行く!

メッセージが来た瞬間、あたしは人生を大きく動かす振動のようなものを感じた。何かが大きく弾けて消えゆく予感への恐ろしさと、それ以上の期待。その日一番のスピードで改札を抜けた。捨てられなかったものがどうでも良くなった。投げ出しそうになったものをもう少し抱えていようと思った。滑らないようにと踏みしめた、濡れた地面の硬さを骨で感じた。

雨が降っていることも、視界やカメラを構える手が傘に邪魔されるであろうことも分かっていた。ここ最近雨が降ったことなんてなかったのに、なんで今日なの。それでもあたしたちは電車に乗ったのだ。何一つとしてお店がやっていなくとも、東京タワーはまだ光っているのだから。ただ光っているだけで誰かが行く理由になるのだ、この塔は。

実はもう一枚ヒートテックをバッグの奥底に隠し持っていた。まだ暖かい時間に出勤して行った友人が、寒いとぷりぷり怒ってさっさと帰ってしまわぬように。

小さな約束を1日の終わりの楽しみにして、意地で退勤して、雨の日に電車に飛び乗って。無邪気にあたしを変えてしまう力を持ったこの友人の気持ちと勢いが、あたしには嬉しくて、可笑しくて、泣きながら電車に乗った。小さなことにたくさん喜べるあたしでありたいな。ハンカチで目を覆ったあたしが、この車両できっと一番幸せだった。もう微塵も死にたくなかった。

東京タワーは、小さな光の集まりだった。

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