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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(109)実はすでに何度も登場していた!? 「勝長寿院」と「鬼丸」について調べてみた

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年5月21日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「神力でから元気を出してでも 楽しくめでたく晴れやかに天に帰る」「それが我々の神としての意地です

影が薄くても「意地」とズレっぷりは父譲りだった頼重の嫡男・諏訪時継
(このあと「すげえよ時継… あんたやっぱり十分神だ」と手を合わせる玄蕃のセリフにも
ほろり…二人は一緒に天狗も討伐もしていますしね)

 『逃げ上手の若君』第109話の冒頭、勝長寿院で頼重との最後の時を覚悟する亜也子、弧次郎、玄蕃を待ち受けていたのは、「すごい楽しげ!」な〝諏訪ファミリー〟と時行でした。
 頼重は「神力を使って無理をしておりまする!」の「無理をしております」の部分を強調していますが、最後の最後は諏訪の本領発揮!だと思いました。これまでも頼重は、本気と冗談の境目がどこかわからないままに、時行や小笠原貞宗を翻弄してきましたが、これでこそ頼重、これでこそ諏訪氏、と私は思いました。
 古典『太平記』の中で時行の父・高時と最期をともにした諏訪左衛門入道(法名は真性、諏訪盛高の父とされている)の切腹シーンの〝凄み〟については以前に紹介しました。「この戦に一片の悔いもない」と断言する涼しげな頼重の面持ち、また、わかりにくくも周囲に気遣っているのであろう頼重や時継は、左衛門入道の姿と重なるものがあると感じています。


 第107話(「郎党1335」)からずっと気になっていたのですが、頼重は白髪になっていますよね。人間としての気力・体力はもちろん、神力も使い果たして戦ったことが、このことからも知れるのです。それでも「意地」を取る頼重と瀕死のはずの時継(同席している盛高もですし、そんな彼らを何食わぬ顔で盛り上げる雫も…です)、世間一般の常識からは大きくズレているけれども何だかかっこいい〝諏訪ファミリー〟を描いてくださった松井先生には、敬意を表したいと思います。

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 さて、今回は「勝長寿院」と「鬼丸」について、調べてみたことを紹介して、自分の体験や考えたことなどを記していきたいと思います。

 「鎌倉 勝長寿院

 『逃げ上手の若君』ではいきなり出てきた感のある場所ですが、時行が鎌倉を奪還した後に拠点としていたというのを何かで読んだか、どこかで聞いた覚えがあります(出所を失念してしまいました。もし間違っていたらご指摘ください)。ーーきっと、時行が郎党とともに起居したのも、諸将を集めたのも(第98話「北条の平和」)ここではなかったかと私は考えていました。頼重にとっても思い入れがある場所なのだと思います。

勝長寿院(しょうちょうじゅいん)
 神奈川県鎌倉市雪ノ下にあった寺院。阿弥陀山と号した。別称大御堂,南御堂。宗派不明。1185年(文治1),源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立し,当時,鶴岡八幡宮,永福(ようふく)寺とともに鎌倉の三大寺社の一つに数えられた。室町時代に入ってからも鎌倉公方足利氏の尊崇を受けたが,足利成氏が古河に移ってからは衰え,やがて廃寺となった。
〔世界大百科事典〕

 それゆえに私は、いずれ『逃げ若』の聖地ともなるであろうと考え、連載が始まって一年が経つ頃、聖地詣が始まる前に頼重の追善に行こうと考えました(笑)。上記の引用にあるとおり、廃寺となって今はその跡に碑が建っている写真と「大御堂(おおみどう)」という名称があるのを鈴木由美氏の『中先代の乱』で確認して向かったのですが、一度目は同行の方が足を痛めてしまい無理をしてほしくなかったので帰宅、二度目は妹が自分も行きたいというので一緒に鎌倉に向かいました。
 自分でグーグルマップを調べて勝長寿院跡に印を付けておいた紙の地図を見ながら(簡単な観光地図だと勝長寿院そのものは載っていません)、大御堂橋と文覚の碑を発見してうろうろしていると、観光客はあまり入ってこない場所のようで、地元の方に何度か声を掛けられました(鎌倉にお住いの皆さんは親切なのだと思いますが「大御堂?(ハテ)」という方もいらしたので、住宅街に入り込んできた不審者とみなされても仕方ありません…)。そして、やっと見つけた碑が次の写真です。

勝長寿院跡
(頼重が時継と一緒にここにいたような気がしました)

 勝長寿院を時行軍は城としても使ったという話もどこかで聞いたので、道路をはさんでこの碑の向かいの高台のお宅のあるあたりに寺の中核があったのではないかと思いました。
 第109話を受けて、もう一度手を合わせに行こうと妹と話をしています。今度こそ、聖地詣のファンの方もいらっしゃるのではないかと思っています。

 「北条家 重代宝刀」「名を「鬼丸」

 ああ、そうか、五大院宗繁を斬った刀、正宗が「頼重が持っている」(第100話「百人百色1335」)と言った刀は「鬼丸」だったのですね! ーー確かに、その正宗のセリフのコマの背後に見える頼重は、第2話「鬼ごっこ1333」で、頼重が時行に刀を渡す場面のものです。〝「鬼丸」って何?〟という方もあると思うので、以下に示します。

鬼丸国綱(おにまるくにつな)
 鎌倉時代につくられた日本刀。粟田口国綱の作による太刀。「天下五剣」と呼ばれる5振の名刀のひとつ。皇室御物。初代執権・北条時政が、毎夜悪夢に苦しんでいたが、夢に太刀国綱を名乗る老人が現れ、自分の錆を拭うように言い残す。目覚めてその通りにすると、太刀がひとりでに倒れて鬼の形をした火鉢の脚を斬り、以後悪夢から解放された、との逸話から、鬼丸の号をつけたとされる。
〔デジタル大辞泉プラス〕

 上の引用は古典『太平記』で詳しく語られていますが、名越高家(京都で尊氏に殺された、名越高邦のお父さんです!)が出陣する時に佩刀している描写がありますし、「高時の代に至るまで、平氏嫡家に伝へて、身を放たず守りと成りにけり」とあります。北条氏滅亡後は鎌倉を落とした新田義貞の手に渡ったのですが、『逃げ上手の若君』では頼重が時行の父・高時から預かったという設定なのですね。
 ※佩刀(はいとう)…刀をおびること。また、その刀。帯刀。

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 尊氏の「人外の化け物」ぶりを見せつけられて以来、私はページをめくるのすら辛くなっています。今回は、時継が明かした子どもの頃の話で胸が締めつけられるようでした。
 松井先生は頼重の最期にあたって、頼重と時行の絆ばかりを強調せず、実の子である時継との父子のあり方(そして時継は、諏訪に残った子の頼継のことを案じている一方で大丈夫だと信じている…)や、未来予知の神力を雫に継承させたこと、さらには、時行の郎党として選んだ子どもたちへの思いといったあたりもしっかりと描き込んでいます。第108話でも触れましたが、『逃げ上手の若君』には諏訪頼重と一族、神党の家族の姿そのものが、現代の家族に対する問いかけであると思わずにはいられません。


 頼重の死からは逃げないと誓った時行が、どこに逃げ延び、果たしてどこへ向かっていくのか。記録や物語でも残されていない部分を松井先生がどのように描いていくのか、まったく想像もつきません。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕



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