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『逃げ上手の若君』第9巻・第10巻での目から鱗 ~1月・4月の逃げ若を撫でる会より~

 第9巻・第10巻で時行軍に立ちはだかる関東庇番は、会の中でも大人気! イケメンだから…というだけでなく、彼らの個性と信念を描いたストーリーに共感のコメントが多く寄せられました。 


 『逃げ上手の若君』コミックス第9巻(1月4日)および第10巻(4月4日)の発売を受けて開催いたしました『逃げ若を撫でる会』(通称『撫で若』)ですが、雰囲気はとても和やかながら、作品やキャラクターへの愛は深く、作品内にちりばめられた史実や小ネタへの指摘が毎回鋭い……。

 そこで、会だけでクローズにしてしまうのはもったいない!と個人的に思われた内容を、こちらでシェアしたいと思いました。
 『逃げ上手の若君』の魅力の再発見、そして、やはり松井優征先生はスゴイという思いを新たにしていただくことができればと思います。
 また、けっこう真面目で面白そうなオンラインイベントなんだなと思われた方は、ぜひとも次回以降ご参加くださいね(単行本発売月に開催しています)。


【第9巻】「この刀で時行の首を刎ね飛ばし 必ず無事に持って帰れ」

第73話「庇番1335」より

 渋川義季「拙者は直義様に出陣の挨拶を申し上げてくる」
 岩松経家「頼みますぜ 一番組筆頭の貴方が言わなきゃ始まらねぇ」

 ーー時行討伐のための出陣前夜、義兄であり、鎌倉を統率する足利直義のもとを渋川義季は訪ねます。そこで義季は、直義から一本の刀を丁重に受け取っています。

 〝この場面、「節刀せっとう」を意識しているのかな…と思ってかっこよかったです〟

 「節刀」ーーあっ、と思い出しました。『逃げ上手の若君』ではまだ先のことになりますが、後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏討伐のために、新田義貞が授けられていたなあ、と。
 「節刀」とはこのように、天皇が将軍に対して全権委任の証として賜る物ですが、『逃げ上手の若君』のこの場面では、実質的に関東で後醍醐天皇の皇子を補佐する直義から、庇番のトップである義季に対して〝任せたぞ!〟という気持ちを表現したものであるとしたら、確かにかっこいいですね。

 なお、「世界大百科事典」の「節刀」の説明がわかりやすかったので、参考までに以下に示しておきます。

「節刀(せっとう)」
 古代において将軍の出征に際し天皇より賜る刀をいう。軍防令に〈凡(およ)そ大将,征に出でなば皆節刀を授けよ〉とあり,その義解に〈凡そ節は髦牛(ぼうぎゆう)(長毛の牛)の尾を以て為(つく)る。今劔を以て代う。故に節刀と曰う〉とあるように,将軍が天皇から征討に関する全権を委任された節(しるし)の刀のこと。将軍に准じて遣唐大使など遣外使節に授けられたこともあるが,いずれの場合も,使者が部下に対する生殺与奪の権を授けられたしるしであり,将軍・大使らの,部下に対する処分は事後報告で済まされるものとされた。大宝令制定後,蝦夷・隼人などの征討には節刀を賜る例となり,10世紀の平将門の乱にもこのことがあったが,その後は絶えて見えず,駅鈴あるいは錦旗を賜る例となった。幕末,孝明天皇は攘夷の節刀を将軍徳川家茂,次いで慶喜に授けようとして辞退され,次いで明治天皇は東征大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に節刀を授けたが,これが節刀を賜る最後となった。節刀は任が終われば奉還するのが例である。

 何らかの由緒のある名刀を授けて、その信任の厚さを義季に対して示したのであろう直義の律義さを感じさせるシーンでもありますが、古典『太平記』において、直義はいわくありの霊剣なんかでもまるで気にせずに所有しているので、義季ファンはちょっと心配…かも!?


【第10巻】「望月殿の牧場」

第87話「策1335」より

 〝望月重信らしきこのキャラクター、実はマザー牧場のキャラをかぶせているみたいです〟

 Twitterで発言されている方の投稿を紹介してくださった参加者もいらっしゃいました。それによれば、望月氏は信濃だけではなく千葉の方にも「まき」〔=古代の調停の直轄牧場〕を所有していたという事実があって、それを意識して松井先生が「マーモママ」(マザー牧場オリジナルキャラクター)に扮した〝望月パパ〟をここで登場させたのではないかということでした。
 ※マザー牧場…千葉県富津市にある観光牧場。
 それにしては、かわいい動物さんたちと触れ合えることを売りにしているマザー牧場からお𠮟りを受けそうな、血塗られの刀と神石を手にした〝望月パパ〟というのがシュール過ぎです(これについては分析できず…)。


 また、「望月」というのは「十五夜の満月」を意味していますが、一族のその姓が〝望月の日に馬を売りに出かけたことに由来していると聞いたことがあります〟というお話も参加者の方から伺いました。

「望月牧(もちづきのまき)」
 信濃国にあった御牧。長野県北佐久郡望月町・浅科(あさしな)村・北御牧村・小諸市にまたがる御牧原(みまきがはら)と、鹿曲(かくま)川を隔ててその西に接する八重原に及ぶ地。『延喜式』左右馬寮所載信濃十六御牧の一つ。『吾妻鏡』文治二年(一一八六)三月十二日条所載「関東御知行国々内乃貢未済庄々注文」にみえる左馬寮領信濃二十八牧の一つ。信濃諸牧中もっとも大きく、年貢馬数は、もと三十疋であったが延喜五年(九〇五)二十疋となり(『政事要略』二三)、『延喜式』の規定では、信濃国八十疋のうち、望月牧は二十疋とされていた。信濃諸牧の駒牽(こまひき)の期日は、貞観七年(八六五)十二月、従前の八月二十九日から八月十五日に改められ、さらに朱雀天皇(天暦六年(九五二)八月十五日没)の忌日を避け八月十六日とされたが、望月牧だけは八月二十三日であった。しかし平安時代末には望月牧も同じ日になり、和歌などでは信濃諸牧の貢馬がみな「望月の駒」と称せられるようになった。「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむ望月の駒」(『拾遺和歌集』、紀貫之)など、望月の駒を詠んだ古歌は多い。鎌倉時代末には、諸国の駒牽はまれになり、信濃諸牧の駒牽だけが定期的に行われた。「今もさぞよゝの面影かはらめや秋のこよひの望月の駒」(『弁内侍日記』建長二年(一二五〇)条)などの和歌や「望月ばかり今まで絶えず」(『建武年中行事』)などの記事より知られるように、駒牽といえば望月の駒を連想するのが和歌の常識であった。御牧原には野馬除けと称する土塁が数キロにわたって残っている。八重原地区にはこの牧の地頭望月氏ら滋野一族の居館があった。滋野系望月氏らはこの牧を地盤として武士として力を蓄えた。木曾義仲挙兵の地、依田はこの牧の西北に隣接しており、その軍馬供給にこの牧が重要であった。北佐久郡立科町津金(つがね)寺には地頭滋野(望月)氏が承久二年(一二二〇)と安貞元年(一二二七)に造立した石造宝塔がある(県宝)。
〔国史大辞典〕

 ずばり姓氏の由来は記されていませんでしたが、「和歌などでは信濃諸牧の貢馬がみな「望月の駒」と称せられるようになった」「望月の駒を詠んだ古歌は多い」「駒牽といえば望月の駒を連想するのが和歌の常識であった」という説明で十分かもしれませんね。
 ※駒牽(こまひき)…平安時代、宮中で行われた御料馬(ごりょうば)天覧の儀式。

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 そのほか、第81話「武士道1335」で「兄上の子」として直義が口に出した〝足利尊氏の子〟つまり室町幕府の第二代将軍・足利義詮がこれまでちょいちょい登場していること(第1話や第59話)や、「上杉様の実験動物となろうとも!」(第88話「ダービー1335」)と絶叫している長尾景忠の後裔から上杉謙信が登場する(上杉の姓と関東管領職を譲られる)のだから、松井先生のストーリー作りがすごいというのが納得…といった、『逃げ上手の若君』で松井先生のことを知った参加者の感想もありました。

 そんなわけで、定期的にコミックスを読み返してみたいですし、「逃げ若を撫でる会」で今後もご参加者にいろいろと教えていただけたらいいなという思いを新たにしました。


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