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「汚れた手」としての政治(2)(2022)

第2章 サルトルの『汚れた手』
 『汚れた手(Les Mains Sales)』はジャン=ポール・サルトルによる7場の戯曲である。 1948年パリのアントアーヌ劇場で初演されている。政治権力と人間の自由や組織と個人、手段と目的、理想と妥協、政治判断と評価など政治をめぐるさまざまな課題を扱った作品である。ただ、国際情勢に翻弄されたことでも知られる。ソ連と微妙な関係にあるフィンランドでの上演禁止,ロンドン並びにチューリヒ公演に対する共産党からの攻撃、卑俗な反共メロドラマに改作したアメリカ公演に対するサルトル自身の抗議など多くの反響を呼んでいる。最近でもウォルツァーとコーディーによる政治と道徳の議論、ブレクジットと関連させた読み直しといった新たな検討を誘発しており、依然として刺激的な作品である。

 『汚れた手』は次のような内容の戯曲である。

 第二次世界大戦後期の架空の東ヨーロッパの国、イリュリア(Illyria) が舞台である。 イリリアは古典古代の国で、その領土には現在のアルバニアやマケドニア、コソボ、ギリシャ、セルビアとその周辺が含まれている。ただ、この歴史的イリリアではなく、小国の設定である。同国はナチスドイツの同盟国で、ソ連の侵攻が迫っている。

 主人公は若き共産主義者ユゴー・バリーヌ(Hugo Barine)である。彼の所属する党のリーダーはエドレル(Hoederer)教授で、老練な政治家として知られている。戦後の混乱期にあり、ファシストやナショナリスト、自由主義者、共産主義者など諸勢力が入り乱れた政治状況である。対独レジスタンスを組織化していたにもかかわらず、エドレルはこうした多くの党派との連立政権を構想しているとされる。ユゴーはそれを危険だと反対している。

 そのユゴーに党の有力者であるルイがエドレル暗殺を持ちかける。経験こそ未熟だが、党への忠誠心の高さを見こんだからだ。若者はそれを受け入れる。

 ユゴーは、秘書になるため、妻ジェシカと共にエドレルの元に引っ越す。ただ、エドレルは非常に魅力的な人物なので、彼女は暗殺計画のことを夫から聞かされても真面目に受け取っていない。

 10日が経過、エドレルは諸勢力との交渉を始め、彼自身嫌っている右派との合意に向かう。ユゴーが密かにエドレルを銃で狙いすましている時に、突然、爆弾が破裂する。別の暗殺計画があったというわけだ。死者は出なかったものの、ユゴーは党が自分を信頼していないと憤慨する。ユゴーはやる気をなくし、妊娠中のジェシカが彼を庇う。

 反エドレル派の一人オルガ・ロラメが二人の元を訪れる。ジェシカに爆弾はユゴーへの警告だったと明かす。計画を迅速に実行しなければ、彼を任務から外すと告げる。ジェシカは爆弾の件ですでに暗殺計画がお遊びでないと気づいていたが、状況はさらに切迫していることを理解する。

 ユゴーとジェシカは殺害するためにエドレルの元に再びやってくる。彼は、そこで、真の目的を語り始める。

 エドレルは連立政権を樹立後、主要ポストを右派勢力に譲る計画を持っている。直近の課題は経済の立て直しである。しかし、それには不人気な政策も実施する必要があり、政権運営は立ち行かなくなる。現時点で共産主義者は十分な支持を人民から得ていないが、その時は権力奪取のチャンスになる。東側陣営に組みこむために、ソ連が近々イリリアに侵攻してくる。しかし、外国の軍隊を人民は快く思うはずもなく、侵略者と見なすとエドレルは知っている。かりに解放軍であっても、同様である。銃を持って立ち上がる者も出てくるだろう。けれども、ソ連軍は強大で勝ち目はなく、国土は荒廃、大勢の人民が死に傷つくに違いない。この悲惨な状況を何としても避けなければならない。それにはより多くの勢力を政権に取り込むほかない。

 ユゴーはその説明に納得できない。彼は、右派と妥協などせずに共産主義者が従来の方針通りに単独で権力を握るべきだと主張する。これまでの敵と協力して政権を支えるなど欺きであり、到底受け入れられない。

 ユゴーとジェシカは二人きりになる。ジェシカはエドレルの考えに納得する。一方、ユゴーは彼女が説得されたこと自体にエドレルの危険性を見出す。こうした人を丸めこむ能力があるのだから、連立政権の合意は彼が殺害されねばならぬ十分な理由になる。

 その後、二人はエドレルの魅力に吸い寄せられる。ただ、ユゴーはエドレルの計画にやはり賛同できない。そのエドレルはユゴーが自分の暗殺を企んでいることを知っている。彼はそうしたユゴーの理想主義的姿勢の原因を疎外に見出す。その上で、エドレルはユゴーの心理的葛藤の解決の力になれると考えている。

 ジェシカはエドレルにユゴーの計画を告げ、それを阻止しようとする。エドレルが彼女の気遣いに感謝してキスをする。ところが、その光景を目撃したユゴーはエドレルを射殺してしまう。

 刑務所で服役しているユゴーに党からチョコレートの差し入れがある。しかし、それが毒入りだと気づく彼は口にしない。出所後、彼は誰かに跡をつけられているとオルガの元に匿ってもらう。

 そこでユゴーはオルガに暗殺の理由を語り始める。ジェシカの件で嫉妬したからではない。エドレルが自分を支配しようとしたからだと明かす。オルガはその説明に納得し、殺すよりも彼を生かしておいた方が得策だと確信する。

 ユゴーはオルガから服役中に状況が変化したと聞かされる。暗殺後、モスクワからエドレルの計画同様の指令があり、党は方針転換する。エドレルは名誉回復し、偉大な指導者として賞賛されている。ユゴーはそれを耳にすると憤る。このまま等に自分が党に残るなら、暗殺は無意味なものになってしまう。もはや彼は生きる気力を失う。ジェシカもすでに彼のもとを去っている。

 ただ、ユゴーはエドレルの暗殺が正しかったと信じている。多くの人命を救ったことは確かだが、あの男はその性格によって死ななければならないと強く思うユゴーにとって死を選ぶほかない。オルガは生きるように説得するが彼の決意は固い。

 そこに党の派遣した暗殺者がドアをノックする。ユゴーはまだエドレルを殺していないが、やり遂げ、その後に自分のことも片をつけると叫ぶ。そうしてエドレルの暗殺者はドアを蹴って開け、「取り返しがつかない(Irrécupérable)」と叫び声を上げ、幕が下ろされる。

 この『汚れた手』は発表された時期が第二次世界大戦終結から間もなくで、なおかつ東西冷戦が始まった頃である。戦争の記憶が生々しく、ソ連の西方拡大への切迫感という時代状況の中で読まれている。そういった事情もあり、先に挙げたような事件が起きる。しかし、東西冷戦が終結した後、『汚れた手』はその文脈に囚われない読み方が試みられている。それは別の今日的な文脈に即して、あるいは政治をめぐる抽象的な課題に照らしての読み方である。いずれであっても同時代的な政治状況を動機としている。

 フィンランドでの上演禁止について触れておこう。理由は同国のソ連との関係である。フィンランドはカレリアなどをめぐってソ連と1939年からの冬戦争及び1941年からの継続戦争の2回戦い、いずれも敗れている。この継続戦争ではナチス・ドイツの協力を得ていたため、フィンランドは第二次世界大戦の敗戦国として扱われ、国際社会に復帰するのは連合国21ヶ国に対するパリ平和条約に調印した1947年のことである。

 戦後、ソ連は東欧で衛星国の樹立や進駐を進め、東側陣営を構築する。そうした中、フィンランドは独立国としてソ連の支援下で戦うという覚書をモスクワに提出する。同国経由以外の武力行使に対処する義務はないので、西側陣営に加わらないとの表明である。また、パーシキヴィ路線と呼ばれる親ソ外寇を方針としている。さらに、メディアもソ連の侵略への批判を自主規制する。こうした姿を西側諸国は「フィンランド化(Finlandization)」と揶揄している。この生き残り戦略により、フィンランドは、1956年、ポルッカラ租借地の返還に成功、ソ連タブーを除けば、西側と共通した体制を維持している。チェコやハンガリーと違い、ソ連軍が侵攻してくることもなく、冷戦の中でも独立と平和を確保している。

 フィンランド化はソ連解体まで維持される。『汚れた手』はそれが始まる翌年の発表で、上映禁止はこうした背景が影響しているだろう。

 ところで、2022年2月に始まる侵略の前、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナに「非軍事化・非ナチ化」を要求している。それは継続戦争の際のソ連のフィンランドに対する姿勢を思い起こさせる。彼はウクライナの「フィンランド化」を求めていたと考えられる。実際、ロシアと徹底抗戦するウクライナの姿にモロトフ・カクテルでソ連の戦車に対抗するフィンランドを重ねて捉える論者もいる。

 ソ連の軍事侵攻を控えた政治指導者のふるまいなどの内容からこの演劇をウクライナ情勢と関連させて見る向きもあろう。しかし、政治は文脈に依存し、この作品のイリリヤ=ソ連の関係は今のウクライナ=ロシアとは異なる。

 エドレルの率いる政党は、モスクワの指示に従っているように、親ソ派である。世論の支持はまだ十分ではなく、単独政権樹立を目指した場合、他勢力との対立が予想される。そうした混乱の中、東側への編入のため、ソ連が軍事侵攻すれば、戦争に発展する。多数の死傷者が出て、国土も荒廃してしまう。ソ連の影響力を背景に党が権力を維持できるとしても、侵略者の傀儡政権として世論は支持しないだろう。

 このシナリオをエドレルは避けようとしている。右派を主要閣僚とした連立政権を発足させても、経済政策ですぐに行き詰まる。世論の不満を追い風に自分たちが単独ないし中心になって政権を樹立すれば、ソ連とも良好な関係を築けるので、戦争を回避できる。

 一方、ウクライナはクリミア問題をめぐってすでにロシアと対立状態にある。国内にはさまざまな勢力がいるけれども、親ロシア派は一部地域にとどまっている。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は選挙で圧倒的な結果で当選している。戦争前こそロシアに弱腰などの理由で支持率が低迷していたものの、彼はあくまで親ロシア派ではなく、NATOへの接近を進めている。ロシアは、そんな彼を排除して傀儡政権の樹立を目論んで侵略行為に及んだと推測されている。

 エドレルは、人民の犠牲を出したくないことは確かで、そのために最大限努力している。けれども、彼は親ソ派である。将来の自身の権力のためにソ連の影響力が必要とも考えている。ゼレンスキー大統領がエドレルのように振る舞えば戦争を避けられたという仮説は的外れである。ウクライナに対するロシアの侵略行為と直接的に関連させるよりも、『汚れた手』は政治と倫理の関係からの読みが意義深い。

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