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形式化と文学(3)(2009)

第3章 作家の倫理
 一方、形式化とは別の観点から村上春樹の本を読んでも、作品の出来以前に作家の倫理の点で疑問を持たざるを得ない。

 『かえるくん、東京を救う』((2000)という短編小説がある。東京の地下に棲む大みみずくんが、阪神大震災に刺戟されて、地震を起こそうとしているのを知ったかえるくんが片桐さんと共に戦い、東京を救うという寓話である。ただし、夢の中の物語であろうと暗示されている。これは非常に評価が高く、川村湊法政大学教授を始めとする文芸批評家も好意的な評を書いているし、内田樹神戸女学院大学教授に至っては、彼の最高傑作とまで賞賛している。

 しかし、この筋を聞いただけでも、この小説には不備があることがわかり、文学に値しないと言わざるを得ない。荒唐無稽だからではない。寓話にもなっていないからである。
 自然をめぐる寓話は今の世界の意味づけを描く。「なぜ岩手はそう呼ばれるか」とか「どうしてウサギの目は赤いのか」といった問いに寓話は答える。けれども、東京で地震を防いだという設定は寓話ではあり得ない。と言うのも、地震はこれからも引き続き起こるからだ。

 言うまでもなく、日本全体ではまったくないわけではない。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮にある武甕槌大神要石は、地震を鎮めているとされている。「揺らぐともよもや抜けじの要石鹿島の神のあらむ限りは」という和歌が伝えられているほどだ。地震の原因である暴れる竜をこの石が抑えているために、地域にはその大きな災害がないという伝承がある。

 これを別にすれば、地震の原因は地下に棲む大なまずが暴れるためというのが古来からの主流とも言える伝承である。みみずはいわゆる益虫であるので、通常、日本では人間にとって害悪をもたらす対象として昔話の中で描かれることはない。

 なお、大みみずは、大ケラと並んで、神話上で中国を統一したとされる五帝の最初黄帝のシンボルである。彼が「土徳」とも呼ばれているように、大みみずは徳の比喩だ。それを抜きにしても次のような書き方が考えられる。

 日本は世界でも有数の地震国である。人々は地震に苦しめられている。昔から地震を止めたという寓話をつくったところで、地震は現実にまた起こるから、人々は受け入れない。なぜ日本には地震が多いのかを説明する寓話ならあり得るだろう。また、主人公が地震の予兆を知って民衆や動物たちを救ったとするか、その人だけは備えていてそれを嘲っていた人々はひどい目にあうということも可能である。もちろん、逆に主人公に罰が当たるというケースもあり得る。いずれにせよ、あくまで人間は地震に対して受動的である。

 日本が地震をつねに意識していることはレバー水栓からも明らかである。これは障害者や病人、高齢者等が使いやすいようにと普及したが、当初は上げ止めと下げ止めのイ二つの方式が並存している。しかし、阪神淡路大震災の際、上げ止めのレバーに物が落ちてきて水が流れ出る事例が報告され、以降、下げ止めに統一されていく。同様の理由からブレーカーも日本では下げ止めである。

 『かえるくん、東京を救う』は、言及されているように、阪神大震災の後に書かれ、それを踏まえている。東海沖地震はいずれ訪れるとされ、大学・専門機関が研究を続け、国と地方自治体が共同で各種の対策を講じている。しかし、少なくとも一般の間では神戸が地震に襲われるなど想像もしていない。あの時以来、日本では、地震はどこでも起こり得るし、それに備えて、いかに被害を小さくするかが課題なのだと人々は知る。

 にもかかわらず、村上春樹は主人公たちが元凶と戦って地震を食い止めるという寓話を書いてしまう。あまりにも脳天気だと言わざるを得ない。

 自然現象を克服する寓話がないわけではない。宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』(1932)がそれに当たる。この物語の生まれた背景には、1931年の東北大飢饉がある。農村は極度の困窮に陥り、欠食児童や娘のみ売りなどが社会問題化している。この作品には、この悲惨な状況を改善できないものかという賢治の願いが込められている。

 主人公ブドリは、自らを犠牲にして、火山を大噴火させて温室効果ガスを大気中に増加させ、地球温暖化によって冷害の再発を止める。これは原理的に間違っていない。地球温暖化は、今日では、人間生活に弊害があるという認識が広く浸透し、それを食い止めていこうというのが国際的なコンセンサスになっている。しかし、見逃してはならないことは、気候変動が問題となるはるか以前にそのメカニズムを正確に見出していた点である。おそらく世界の文学において、気候変動を扱った最も早い作品だろう。賢治の先見性には驚かされる。

 地震はあくまでも記号であり、それにとわれずに、別の教訓を説く寓話として読むべきだという反論もあるだろう。事実、評価する論者はそうしている。

 しかし、阪神大震災の後に、日本の作家が地震を口実にして書くとしたら、それは不謹慎経というものだ。スマトラ島の作家が津波を、ニューオリンズの作家がハリケーンを口実にして小説を書くことはあり得ない。それは彼らにとって固有の意味があるからだ。こんなこと少し深く考えれば、気がつくはずである。神戸在住の内田教授がこの小説を絶賛している姿に、彼の良識を疑わずにいられない。口実に用いる作家はそのことに実感がないだけである。

 阪神大震災を経験した後でさえ、東京の地震をとりあげていることも村上治樹の想像力の貧困さを物語っている。それ以前、専門家の間ではともかく、関西では大地震が起こらないという一般的信念がはびこっている。次に大地震が生じるとしたら、東海地震の可能性が高く、また東海・南海・東南海連動型地震もありうるとして、国や自治体、研究機関も警戒し、膨大な予算と人員を当てている。そこ以外でも大地震の被害があったにもかかわらず、東海・南関東が一般の認識上の前景に現われ、他地域が後景に追いやられている。

 1923年の関東大震災に因み、池田勇人内閣は9月1日を「防災の日」に制定している。小松左京のベストセラー『日本沈没』も関東の地震を想定している。しかし、阪神大震災はその通念を揺るがす。日本には大地震が発生しない場所などない。作品において、もはや地震を関東に限定する必然性がない。このような認識の転換がなかったかのような小説を書く作家がいることも驚きだが、それを賞賛する文学研究者や読者が国内外に少なからずいることに吃驚する。はっきり言って、情けない。

 阪神大震災を経験した後であれば、むしろ、作家たるもの地震を掘り下げた寓話を書くべきであろう。村上春樹は宮沢賢治を見習わなければならない。

 全共闘運動の挫折の後に、ロマンティック・アイロニーを多用し、固有性を忌避する文学や音楽が数多く登場している。井上陽水の『傘がない』がその典型である。これは時代の要請で、失敗によって粉々になった自分自身の救済である。時代の固有性に対峙しているから、倫理性がある。村上春樹はその時流からデビューしている。

 本来は『傘がない』ではなく、『山吹の花』とでもした方が文学的である。「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」をめぐるエピソードくらい知らなくては、日本の表現者とは言えない。

 けれども、村上春樹は二作目以降も同じ姿勢で書き続ける。何のことはない、世界に対する自意識の優越性を確保することが作品の目的だったわけだ。村上春樹の散文は、ジャンル論で言うと、「ロマンス」に属する。これは円環構造を持ち、ある事件・出来事が終わるまでを描きるので、作者の願望を充足しやすいという特徴がある。固有性を奪えば、すべてを恣意的に扱うことができる。作品上に現われるものは口実にすぎない。

 この物語で地震の原因を竜や大なまずにではなく、大みみずにしたのも、地震=なまずという固有性を避けるためだろう。歴史より作者の自意識が上に置きたいからだ。しかし、竜や大なまずにして物語を構築し。やっぱり伝説は本当だったという風にした方が読者に想像力を喚起させられる。人々の間で共有されているからだ。固有性への意識は歴史の中に自分を位置づけいこうとすることである。

 歴史との連続と断続によってその作品の固有性が生まれる。固有性を無視するとしたら、それは自分を超歴史的存在と勘違いすることだ。加藤典洋早稲田大学教授は、『文学地図』において、大江健三郎と村上春樹の評価者が相反すると長々と書いている。大江健三郎は戦後文学の諸問題を作品内に取り入れるなど自分を文学史に位置づけながら、書いている。他方、村上春樹は自分を歴史の上に置く。だから。両者の評価が対立する。それだけのことだ。村上春樹は歴史とのコミュニケーションを拒否した作家なである。

 村上春樹には、とにかくこうした口実が多すぎる。最新作の『1Q84』にカルトを口実に使っている。けれども、日本はオウム真理教による殺人・テロ事件を経験している。そこでそういう小説を著すということは、ルワンダの作家が虐殺を、ニューヨークの作家が旅客機を使ったテロを口実に書くことと同じである。社会がトラウマから回復するために物語を描くならわかるが、口実なら、死の商人認だ。。そんな無神経な小説家がいるなどとは思いもよらないが、村上春樹はそうする。

 作家の倫理は固有性への繊細な配慮である。言葉はそれを記しただけでは一般的なものにすぎない。これは映像と比較すると、よく理解できる。

 映像が映し出す光景は固有なものである。何の変哲もないスチール製の中古の事務机の写真だとして、それは机一般ではない。逆に、机一般を映すことは不可能である。他方、「机」と書き記した場合、映像と違って、そこに具体性や固有性はない。それはあくまで机一般である。机と言われても、他者であるから、どんなものかわからない。描写を通じて一般的なものを固有なものにするのが小説である。

 言葉の性質上、固有性を表わすのが困難であるため、そこに文学の感動や楽しみが生まれる。思いつきや思い込みだけで独断的に書くと、他者がいないから、どうしても記述が一般的になってしまう。固有性への細やかな意識が作家には求められる。それは他者を気遣うことであり、作家の倫理である。村上春樹を読むと、こうした倫理性の重要性を逆に痛感させられる。

第4章 新たな文学モデルへ向けて
 ルイス・キャロルは公理主義以前なので、数学の見方が現在とは違うが、言葉と意味の分離や論理性の追求が不可思議なことをもたらす逆説をファンタジーの中に描いている。曖昧さが不可解さ招くとは考えていない。安易に「謎」を口にする作家以上に、キャロルは悩ましい世界を提示している。現代数学を大胆に作品に導入する手法は今日においても有効である。

 しかし、形式化の考えは文学にそれ以上の示唆を与えてくれる。登場してきた作品が新たなモデルを提供しているかどうかを判断できる点にある。表面的には奇抜だったり、突拍子もなかったり、騒々しかったりしていても、形式化してそのモデルを確認すると、旧態歴然たる代物であることもしばしばである。各誌の新人賞受賞作に目を通すと明らかだが、今の日本文学は文学モデルの構築に関して見るべき作品は少ない。

 村上春樹にしても、言葉なんて何でもいいのであれば、それを無視した形式化に耐えうるだけの文学モデルをつくり上げて然るべきである。先に触れた「問題提起」・「体系化」・「精密化」は文学者においても有効である。いずれかに貢献していれば、後に続くものが現われる。ギュスターヴ・フローベールやヘンリー・ジェイムズが形作った近代小説という文学モデルは、極めて汎用性が高い。どんなにつまらない人物であっても、いかに些細な出来事であっても、それを使えば、文学作品になりうる。

 また、かつて大江健三郎が提示した文学モデルは多くの追随者を生み出している。村上春樹もその一人である。けれども、彼の作品を形式化して考察すると、単純で、柄谷行人が『村上春樹の「風景」』で指摘しているように、昔ながらの「ロマンス」に収まってしまう。読者はいても、村上春樹の作品か後継者が生まれていない。それは作品のモデル性が貧弱だからである。古いモデルに恣意的なに言葉をはめこみ、それを「謎」と称し、読者も誉めそやす。「謎」などを言う前に、形式化を徹底化して、新たな文学モデルを生み出すべきだろう。

 現代社会の最大の課題は持続可能性である。それを体現する文学モデルが求められている。

 ひじょうに特殊な世界の性質しか反映していない公理系は、数学的に「悪い」公理系である──昔々、矢野健太郎先生が「これこれの公理系をみたす空間はただ1点から成る」ことを立証した論文について「そんな公理系に、どういう意味があるんでしょうねえ」と呆れておられたが、「ただ1点から成る」空間にしかあてはまらない公理系などは、ここでいう「悪い公理系」の代表的な例である。
(野崎昭弘『不完全性定理』)
〈了〉
参照文献
赤塚不二夫、『ニャロメのおもしろ数学教室』、角川文庫、1984年
池内了、『似非科学入門』、岩波新書、2008年
内田樹、『村上春樹にご用心』、アルテスパブリッシング、2007年
加藤典洋、『文学地図-大江と村上と二十年』、朝日選書、2008年
柄谷行人、『終焉をめぐって』、講談社学術文庫、1995年
川村湊、『村上春樹をどう読むか』、作品社、2006年
金田一秀穂、『気持ちにそぐう言葉たち』、清流出版、2009年
柴田元幸、『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』、アルク、2004年
野崎昭弘、『不完全性定理』、利熊学芸文庫、2006年
同、『数学的センス』、利熊学芸文庫、2007年
宮沢賢治、『宮沢賢治全集8』、ちくま文庫、1986年
村上春樹、『神の子どもたちはみな踊る』、新潮文庫、2002年
同、『東京奇譚集』、新潮社、2005年
同、『1Q84』Book1・2、新潮社、2009年
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
同、『数学的思考』、講談社学術文庫、1991年
D・ヒルベルト、『幾何学基礎論』、中村孝四郎訳、ちくま学芸文庫、2006年
文化庁、『敬語の指針 平成19年2月2日文化審議会答申』
http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/pdf/keigo_tousin.pdf
算円舎Web、『ユークリッド原論』
http://math.pisan-dub.jp/euclid/index.php

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