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巣ごもり2DK─2020年4月1日~4月3日

2020年4月1日
 エイプリル・フールの今日、ニュースを聞いていて、咳と言うよりむせてしまい、思わず、こんな川柳をひねる。「四月バカ マスク二枚と 安倍総理」。

 1348年のペスト大流行の際、フィレンツェ市内の寺院で葬儀に参列した男3人と女7人の10人が禍を避けるために郊外の別荘に引きこもる。退屈しのぎに、10人が10日間に亘り1人1日1話ずつ語り合うことになる。これがジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語集『デカメロン』(1353年頃)である。日替わりでテーマが与えられ、10人はそれに基づいた小話を披露する。テーマは「散々な目に遭いながら予想外のめでたい結末を迎えた話」や「恋する人に起きた荒々しい不幸な事件の後にめでたく終わる話」、「女たちが夫にやらかした悪さの数々」といったものである。内容はすべて笑い話だ。カネとオンナにしか興味のない聖職者、落ちぶれた貴族、したたかな商人、たくましい庶民、奔放な肉欲に興じる男女などが登場し、バカバカしい小話が展開される。辛気臭さや説教じみたところは一切ない。底抜けの笑いによって生のエネルギーが爆発している。

 従来、文学の創作・鑑賞は古典教養を共通基盤として成立している。そのため、作品の舞台は過去に設定される。しかし、『デカメロン』はそれを同時代に置いた初めての散文物語の一つである。ペスト禍が社会を変え、人々はその経験を共有している。誰もが死の恐怖の下に置かれ、今を生きるのに必死で、昔を思う余裕などない。作品の舞台であるフィレンツェはペストにより人口の3分の2が亡くなったとされる。

誰も彼も、毎日、今日は死ぬかと待っているかの如く、家畜や土地の未来の成果や自分たちの過去の勤労の成果を考えたりしないで、ただ現在、蓄積してあるものを消費することにありったけの智慧を絞って遺憾なからんとするのみでありました。
(『デカメロン』)

 こうした状況により新たな共通基盤が生まれているので、舞台を過去に求める必要はない。現在を扱う以上、それにふさわしい文体も求められる。エーリヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』によれば、この文体はイタリア散文芸術の先駆けである。ペスト禍は文学も変える。

 『デカメロン』は、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』と違い、整然とした構成をしている。1日10話ずつ10日間の規則性はこの空間の外部の日付に従っている。それは日常性の回復への願いを物語る。

 疫病は、戦争と違い、建物や農地を壊すことなく、人命だけを奪い、終わりも見えない。また、被害は身分や階級、財産にある程度依存するものの、飢饉ほどではない。しかも、原因が目に見えない。災害は社会の活動を停滞させるが、そうした特徴により疫病の下で人々は重苦しく抑圧され、次は誰だと疑心暗鬼、フラストレーションがたまる。

 笑いはこうした閉塞感から10人を開放する。陰鬱な気分を癒し、精神の健康を回復させてくれる。しかし、彼らはただ笑いたいのではない。その感情を分かち合いたいのだ。同じ場での底抜けの哄笑が共感と信頼という絆の回復につながる。それは疫病がこれまで壊してきたものだ。

 新型コロナウイルスのパンデミックにより多くの地域において移動の自由を始め近代の基本的人権が制約されている。外出できず自宅にこもっている人も少なくない。場合によっては、そこにはDVもある。#stayhomeの人たちの間でSNSに滑稽な動画を投稿することが流行している。閉じこもりながらも、ネットを通じて他者とつながり、笑いを分かち合う。感染拡大するCovit19が断ち切ろうとする共感と信頼の絆を動画の拡散によって強化・拡張する。これは現代の『デカメロン』の姿である。

 夕食は、ジャスミン米にグリーンカレー、ゆで卵、ツナとジャガイモのサラダ、野菜サラダ、食後はコーヒー、干し柿。ウォーキングは10153歩。都内の新規陽性者数は97人。

参照文献
ジョヴァンニ・ ボッカッチョ、『デカメロン』全6巻き、野上素一訳、岩波文庫、2002年


2020年4月2日
 朝、相変わらず咳が出る。おまけに、時々胸が痛くなる。天気もいいので、掃除をして換気をする。風が少し強いが、陽の光が暖かい。パンデミックの現実を忘れそうになる。

 パンデミックは近代以前から発生している。それを産業化やグローバル化のせいと批判することは短絡的である。ただ、近代産業化は、主として農業が引き起こしてきた従前の環境破壊に比べて、その規模・速度がはるかに上回っている。また、グローバル化はそれまでの人間の移動の歴史を圧縮している。そのため、パンデミックが発生しやすい条件が用意されていることは確かだ。

 「感染症と人類史」や「感染症と世界史」というトピックはそのスケールにおいて魅力があり、研究の意欲を刺激する。そのため、少なからずの著作が出版されている。それを抽象化すれば、次のようになるだろう。

 森林などの自然環境を開発すれば、動物の生息領域が狭まり、異種同士の接触機会が増える。それを通じて病原体が変異する可能性が高まる。そうした領域へ進出することで、人間は動物と触れることが増加、病原体に感染しやすくなる。

 農業を始めとする産業が発展すると、人口が増加したり、都市化が進展したりするため、人間同士の接触が増える。都市には内発的に人口増加させる力が弱い。けれども、システム論的に関連ビジネスの機会を大きくするので、周辺から人口を集めやすい。こうした状況により、従来は個人や家族間でとどまっていたが、共同体内で感染症が流行するようになる。

 また、戦争も密集空間や他の共同体との接触機会を増やすのみならず、食糧事情・衛生環境を悪化させ、感染・発症リスクを大きくする。さらに、インフラ整備や交通手段の発展に伴い、移動できる距離が拡大、速度が上昇、物量が増大する。それにより感染者が潜伏期間内に遠方に動いたり、媒介する動物が運ばれたりするようになって、感染症の流行地域が拡張してしまう。

 産業化・グローバル化はこの過程の圧縮である。しかし、そこで発達した経済や科学が感染症対対応につながったことを見流してはならない。食糧事情の向上、公衆衛生の改善、科学的知識の進化、情報の共有、医療資源の蓄積などはその産物であり、それなくして今日の感染症の抑制はあり得ない。そうした背景により、天然痘は根絶され、ペストやコレラが大流行することはまずない。

 産業化・グローバル化は移動の歴史の圧縮であるから、新興感染症が従来に増して出現しやすいことは確かである。数が多ければ、それはパンデミック化しやすい。環境問題だけでなく、新興感染症対策も前提にして持続可能な開発に取り組む必要がある。

 新興感染症は絶えず生まれている。それがいつパンデミックにつながるかはリスクではなく、不確実性に属する。SARSや鳥インフルエンザ、新型インフルエンザ、MERSなど21世紀に入ってから数年に一度の割合で流行が起きている。それを念頭に置くなら、環境問題同様、新興感染症は持続可能な開発の検討・実践に組み入れるべきだ。

 持続可能な開発は将来世代の消費水準を現在とほぼ一定に維持することである。それには従来民間・社会資本に限定されてきた資本概念を自然・人的・社会関係資本などに拡張し、その投資を促進する必要がある。ただ、感染症問題は地球温暖化と違い、慢性と言うより、急性の事態をもたらす。医療を始め制度資本もそれに加えることが求められる。

 新自由主義が浸透した政府や企業の姿勢は、新興感染症の流行の際、感染を防止するどころか、促進しかねないことを示している。政府は無駄の削減と称して医療資源を縮小、製薬会社も利益の少ないワクチンの開発から手を引いている。感染爆発が起こると、自身御無関心や無責任、無能をごまかすために、政府は情報操作、企業も隠蔽工作に熱心に取り組む有り様である。悪いのは他国や国際機関、市民、運だというわけだ。パンデミックをきっかけに新たに信頼と協力が形成されるとは限らず、むしろ、自己正当化の口実に利用される。

 今回の最大の教訓は健康や公衆衛生の重要な理由が身に染みたことだ。格差拡大や社会保障不備がパンデミックには弱いことが明らかになっている。社会厚生関数を新自由主義の稼得能力依存型からジョン・ロールズ型にすることが感染症問題を前提にした持続可能な開発に不可欠である。それには税制の整備や財政の健全性を怠ってはならない。

 夕食は、酢豚、豆腐とニンジンの中華スープ、蒸し鶏の野菜サラダ、ダイコンとしらすのマリネ、食後はコーヒー、干し柿。ウォーキングは10249歩。都内の新規陽性者数は97人。

参照文献
石弘之、『感染症の世界史』、角川ソフィア文庫)、2018年
加藤茂孝、『人類と感染症の歴史』、丸善出版社、2013年
ジャレド・ダイアモンド、『銃・病原菌・鉄』上下、倉骨彰訳、集英社文庫、2012年
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2018年
マイク・デイヴィス、『感染爆発』、柴田裕之他訳、紀伊国屋書店、2006年
メアリー・ドブソン、『Disease 人類を襲った30の病魔』、小林力訳、医学書院、2010年
ウィリアム・H・マクニール、『疫病と世界史』上下、佐々木昭訳、中公文庫、2007年
山本太郎、『感染症と文明――共生への道』、岩波新書、2011年


2020年4月3日
 朝、咳は出るが、昨日より軽い。胸の痛みもない。ただ、右の脇腹が痛む。

 社会が危機的状況に直面すると、国内外を問わず、思想家は予言者や長老のように振る舞いたがる。新型コロナウイルス禍においても同様だろう。その論の構成には共通点がある。従来からの自分の関心に基づいて禍を歴史的に位置付け、生じる諸問題に言及、これを機に、それを踏まえた新たな世界や社会、国家の在り方を提言する。彼らは今と言うより、将来の展望に重心を置いている。しかし、それは今回の禍でなくともいえることだ。

 今回のパンデミックが目をつぶってきた既成の諸問題を増幅して顕在化したことは確かである。自然災害や経済的ショック同様、貧富の格差や差別、移民、雇用形態など既存の諸問題を増幅した被害をもたらす。思想家たちはそこからパンデミックをそれらのメタファーやアナロジーで語ろうとする。災禍よって社会が変わるという願望は従来の社会に対するいら立ちから発せられている。しかし、それは五輪や万博によってイベントを起爆剤にして日本が変わるという発想とさほど違いはない。思想家は批判してきたグローバル化や資本主義、国民国家、戦後体制など自らの対象と結びつけ、それを片づけ、自身の夢を実現したいという誘惑にかられている。リーマン・ショックや3・11の時に示されたように、あたかも禍待望論と見えるものさえあるに違いない。そうした楽観論は、新秩序が到来するどころか、旧秩序の急速な巻き返しに遭って、裏切られるものだ。フクシマを経験しながら、日本政府は脱原発に慎重な政策を取り、その復興にかこつけて東京五輪の誘致を後押ししたほどだ。必要なことは、禍の経験の共有に基づき、そこから学んだことに取り組み、何を変え、何を変えないかの社会的コンセンサスの形成だ。予言や教えではない。

 リスクの程度の差こそあれ、世界中の人々に新型コロナウイルスに感染する可能性がある。誰もが感染のリスクにさらされ、その経験を共有している。そのために世界は動きをできる限り止めなければならなくなってしまう。これは21世紀において初めての経験である。共有した経験をどのように生かしていくかが重要である。願望に囚われて、十分に向き合わなかったために、諸課題が解決されず温存されてしまったことを思い出すべきだ。ペスト禍の経験の共有から同時代を扱った『デカメロン』の文体が生まれている。新型コロナ禍の経験の共有がこれからの世界や社会の基盤となるだろう。

 夕食はもつ鍋、食後はコーヒー、干し柿。屋内ウォーキングは10045歩。都内の新規陽性者数は89人。程度の低い首脳の問題を国民国家や国際機関の限界とすり替えてはならない。

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