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子どもの再発見(2010)

子どもの再発見
Saven Satow
Jun. 17, 2010

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」。
夏目漱石『草枕』

  2002年からNHK教育テレビで放映している『ピタゴラスイッチ』は。近代の根幹の一つに対する鋭い指摘をしている。この番組はいくつかのコーナーに分けられているが、中でも冒頭の人形劇が重要である。主なキャラクターは、ペンギンの「ピタ」と「ゴラ」、ネズミの「スー」、百科事典の「百科おじさん」、頭がテレビのイヌ「テレビのジョン」である。

 ピタとゴラが世の中の不思議に出会い、それを物知りの百貨おじさんに尋ねる。すると、簡単な解説をした後、百科おじさんは「詳しいことはわしの101ページに書いてアール」などと言い、自分の体のそのページを開く。ピタとゴラは、読もうとするが、「じーっ、子供だから、読めませーん」と音を上げる。そこで百科おじさんは「しかたがないのお。それでは、テレビのジョンを呼ぼう」と提案し、みんなの前に現われたテレビのジョンがそれを映し出して、説明する。

 この他愛もない人形劇が、実は、近代から現代への変化を凝縮して示している。

 コーネル大学教授ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、『創造の共同体((Imagined Communities)』(1993)において、活字メディア、中でも新聞による言語と言説の共有が国民国家体制の基盤として機能すると述べている。それは子どもの誕生でもある。国民国家が公教育を普及させ、識字率の向上を図る。識字能力は子どもと大人を分かつ主要な基準となる。加えて、発達段階に応じて必要とされる識字能力を習得できるようにカリキュラムが組まれる。日本語であれば、学年が上がるにつれ、ひらがなやカタカナだらけの文章から徐々に漢字の多い文章へと移行していく。識字能力が年齢を規定する。

 ところが、テレビはこの区別を喪失させる。字幕やテロップはともかく、テレビの視聴には識字能力を必要としない。読み書きができなくても楽しめる以上、活字のもたらした大人と子どもの区別は無効になる。ニューヨーク大学教授ニール・ポストマン(Neil Postman)はそれを「子ども期の消滅(The Disappearance of Childhood)」と呼んでいる。テレビ時代にはもう「子ども」はいない。活字メディアが子どもを誕生させ、電波メディアがそれを消したというわけだ。大人は百科事典を読めるが、子どもにはそれができない。けれども、テレビなら両者に差はない。

 ロアルド・ダール(Roald Dahl)の『マチルダは小さな大天才(Matilda)』(1988)もこの関係をうまくとり入れている。中古自動車販売業の夫婦の間に生まれたマチルダは三歳にして字が読めるようになった早熟な女の子である。けれども、無教養で粗野な彼女の親は低俗なテレビ番組が大好きで、読書をしようとするマチルダを嘲る。こんなに楽しいテレビがあるのに、マチルダがどうして字なんか読もうとするのか彼らには理解できない。マチルダは識字能力の獲得・向上に熱心に取り組むが、両親は読み書きに意義を見出さず、放棄している。この作品では大人と子どもが逆転している。

 しかし、そのテレビが子どもを再発見している。それは3D技術である。

 3D映像の技術の概観は次の通りである。人間の両眼視野は通常60度ほどあり、これは猛禽類と同じレベルである。対象との距離を正確に測るために、人間は両目を使って三角測量を行っていると言える。立体として対象を見るには、二つの目が必要になる。2台のカメラで撮影した映像を同期した映写機で投影し、それぞれの映像を左右の目で見ることによって「両眼視差 (binocular parallax)」が生じ、立体視、すなわち対象が鑑賞者と同じ次元空間に属しているという認知が体感される。ただし、動画の場合、それに胴部の運動に合わせて映像を変動させる「運動視差 (motion parallax)」を加える必要がある。3Dメガネが受像機から送られる信号を受信し、それぞれ左右用に撮影した映像を交互に映し出して、脳がその情報を処理して立体感が感じられる。

 けれども、大人と子どもではこの視差が違う。子どもの顔は大人よりも中心に各パーツがよっており、眼と眼の間が狭い。大人の視差に合わせた映像を子どもが見ると、脳が処理できず、気分を悪くする場合もある。逆に、子どもの視差に調整された映像では、大人には立体感が感じられない。3D映像は、現段階では、大人用と子ども用に分けざるを得ない。3Dは子どもを再発見察せている。

 しかし、この子どもの再発見は、かつてと違い、精神性においてではない。むしろ、身体性、より正確には感覚である。

 感覚的な体験を模索する中で、今回の子どもの再考が派生している。人は知識として理解できていても、感覚として受け入れなければ、概して、真の意味で納得してはいない。それは、人間の成長過程を考慮するならば、ごく自然のことである。乳児は、主に母親との感覚的なコミュニケーションをして外界を認識し、その体験を積み重ねて知識として習得していく。当然、知性よりも感覚の方が状況判断では、素早く機能する。

 3D技術は未体験の感覚を体感させる試みである。しかし、それは現実の再現ではない。感覚は外界との作用=反作用などの相互作用によってそれを認知する。その技術はヴァーチャルな環境の創造を通じて感覚を刺激する。関心の重心は現実ではなく、感覚にある。子どもはこうして再び発見される。

 往々にして、身体や感覚を語るものたちはそれをブラックボックスとして扱いたがる。それらが複雑であることは確かである。しかし、こうした後ろ向きの姿勢では、未知の体験が押し寄せてくる時代において、自閉するほか生きる術はない。

 おそらく、これから未経験の感覚を提示する新たな技術がますます登場してくるだろう。未体験の世界に直面したとき、人は、子どものように、感覚を通じてそれを理解しようとする。感覚には知見が溢れている。
〈了〉
参照文献
ニール・ポストマン、『子どもはもういない』、小柴一訳、新樹社、2001年
ロアルド・ダール、『マチルダは小さな大天才』、 宮下嶺夫訳。評論社、2005年
ベネディクト・アンダーソン、『定本 想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』、白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、2007年

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