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分断された社会における公共空間の構築(2020)

分断された社会における公共空間の構築
Saveb Satow
Nov. 14, 2020

「やっぱり、人格が大事です。正直に言うと、トランプのような挑戦者が大統領になれるのはアメリカの民主主義の強みだと思います。しかし、今回のアウトサイダーは国を一つにするリーダーシップや自己愛を越えるエンパシー、嘘をつかない自尊心があまりにもなかったからがっかりしました」。
Martin Fackler@martfack 午前10:31 · 2020年11月7日

第1章 分断された社会と公共空間
 2020年米大統領選挙をめぐるキーワードの一つが「分断」である。一例を挙げると、『日本経済新聞』はサイト内に「分断のアメリカ」のページを設置、こう述べている。「4年に一度の米大統領選が2020年11月3日に迫っています。トランプ大統領の再選か、それとも野党・民主党の政権奪還か。データや分析に基づいて米国の政治、経済、社会などに走る分断の実相に迫りつつ、大統領選の行方を追いかけます」。米国社会は、政治のみならず、全般的に分断化されているというわけだ。

 社会が分断されているのはアメリカに限らないだろう。日本でも、それをテーマにした書籍が出版されている。井手英策他編の『分断社会・日本――なぜ私たちは引き裂かれるのか』(2016)や佐藤優他の『分断社会ニッポン』(2016)などがそうした例である。こういったタイトルの本が刊行されるように、日本社会も分断されているという認知が人々の間に浸透している。

 このような事情により、分断化された社会における公共空間の構築は、最も重要な同時代的課題の一つであろう。ユルゲン・ハーバーマスは、『公共性の構造転換』(1962)において、近代の公共性がコミュニケーションによって動的に形成されると指摘している。しかし、残念ながら、最近は党派性の対立が激化して議論してもかみ合わない。近代は、個人主義・自由主義が本流であるため、多元主義を是認する。しかし、それは、決定しなければならない時に、意見が一つに収斂しない可能性がある。複数の主張がすれ違うだけで妥協も成立しない。そうなると、あからさまあるいは隠蔽された暴力によって決着をつけようという動きが生じかねない。分断化された社会では、まさにこの危険性が現実味を帯びる。

 ハーバーマスによる公共性についての主張には全体主義や大衆社会への批判がこめられている。それは異なった意見が圧殺され、社会が画一化される事態に対する公共空間の構築を意図する。けれども、今日の文脈は、これと違い、分断化された社会である。こういった状況における公共空間の構築には、補完するためにも、別の発想が必要になる。

 ここで参考になるのがアラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre)である。このグラスゴー出身の哲学者は、近代を道徳の合理的基礎付けに失敗した時代と批判する。近代は政教分離、政治と道徳が分離している。道徳は公的ではなく、私的領域に属すとされる。しかし、マッキンタイアはそれに異を唱え、公共性を道徳から捉え直す。彼は近代の文脈を踏まえた上で、アリストテレスを読み直し、それに基づく「徳倫理学(Virtue Ethics)」の復権を主張している。

 マッキンタイアを考察する前に、それが属する徳倫理学について見ておこう。

第2章 徳倫理学
 近代を代表する倫理学説は二つある。それは、動機を重視するイマヌエル・カントの義務論と結果から評価する功利主義の帰結主義である。20世紀後半、それらを批判し、前近代の学説を現代的文脈によって読み直す試みが展開される。これが徳倫理学である。道徳法則や結果ではなく、なされるべき行為の性質ならびに行為者の人格に着目する学説だ。

 この先駆けがガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコム (Gertrude Elizabeth Margaret Anscombe1)の『近代の道徳哲学(Modern Moral Philosophy)』(1958)である。彼女の主張は次の通りだ。

 従前の近代倫理学説は「善」と「正義」を混同し、道徳的行為の「よさ」をその「正しさ」に還元しようとしている。その際、義務論は行為の「正しさ」を道徳法則への一致として捉える。この道徳法則は神の法の代用であり、「立法者」の存在を前提にしている。しかし、20世紀も後半を過ぎた現在、神の存在を信じている人は多くない。「神は死んだ」のだから、聖なる「立法者」も、それに基づく「義務」も、もはや無意味である。また、功利主義者は「結果がよければどんな行為も道徳的に許される」という帰結主義(Consequentialism)も同様である。結果の「正しさ」を行為の「よさ」の根拠にしようとするからだ。

 アリストテレスが探求した「幸福(エウダイモニア)」は「生きがいのあるよい人生を送ること(human flourishing or success)」である。「徳」=「優れた性質の実現」によってそれが導かれる。倫理学が問うべきはこうした主題であって、道徳法則一般ではなく、よく生きることとそれを可能にする人間の人格の研究である。また、「法則」や「義務」、「結果」に依存しない「徳(アレテー)」も同様である。そのため、「意図すること」や「欲すること」、「快楽」、「行為すること」などという術語に関する新しい心理学も必要になる。

 以上がアンスコムの主張である。前近代と近代の倫理学がこのように隔たっているのは、道徳の位置づけが異なっているからである。それについて説明しておこう。

 前近代において政治の目的は徳の実践、すなわちよく生きることである。この道徳は共同体の規範に基づいている。ところが、17世紀の宗教戦争は自らの道徳の正しさを根拠に、殺し合いを繰り広げてしまう。ここではよいことよりも正しいことが優越している。この経験を踏まえて、トマス・ホッブズは、『リヴァイアサン』、において政治の目的を平和の実現に変換する。平和でなければ、よく生きられない。そのため、ホッブズは政治を公、信仰を私の領域に属し、相互に干渉してはならないという政教分離を提唱する。これは公私分離へと発展していく。このホッブズの理論により近代は個人主義・自由主義であり、価値観の選択は個人に委ねられる。

 近代倫理学はこうした政教=公私分離を前提にしている。徳倫理学は近代の学説の諸問題を批判しつつ、現代の文脈に即して前近代を再検討する。主にアリストテレスを重視し、「徳(アレテー)」や「幸福(エウダイモニア)」、「思慮(プロネーシス)」、「目的(テロス)」、「共通善」といった術語を脱構築、すなわち再利用することを試みている。それらを用いながら、その名称が物語る通り、この倫理学は「徳」に着目して、理論を進める。徳にはそれ自体で価値、すなわち内在的価値があるとする。行為者としての個人は人格的統合があり、徳がアイデンティティを与えてくれる。個人の徳の実践は他者との関係、すなわち共同体に基づいている。そのため、個人が徳を追及することは共同体の規範に即しているから、徳は現代の倫理学にあっても中心的課題である。

 マッキンタイアはこの現代の徳倫理学をさらに発展させる。その際、最も示唆的なのが1982年に発表した”After Virtue”とである。これは、「美徳の後」として、邦題は『美徳なき時代』と意訳されている。ただし、英語の”after”には、「~の後ろにいる」というニュアンスから、「~を追い求める」の意味もある。そのため、”After Virtue”は「美徳なき=美徳を追い求める時代」のダブル・ミーニングと理解できる。まさに特に焦点を合わせた道徳哲学の考察である。以下ではそれを検討していこう。

第3章 啓蒙のプロジェクトの失敗
 マッキンタイアによれば、近代は道徳の根拠を合理的に正当化してそれを共有することに失敗している。道徳を嗜好や姿勢など情緒の問題にしてしまう。彼はこれを「情緒主義(Emotivism)」と呼ぶ。情緒主義の時代になったかの理由をマッキンタイアは哲学史の検討を通じて明らかにし、代替案を提示する。彼の論証は思想史をたどる特徴がある。歴史的に見て近代を相対化しなければ、この失敗を自覚できないからだ。

 18~19世紀の哲学者の語る美徳にさほどの内容の違いはない。しかし、その正当化となると、デヴィッド・ヒュームは「情念」、イマヌエル・カントは「理性」、ゼーレン・キルケゴールは「選択」と異なっている。これは各々の思想家が他を論駁できず、自説の正当化が不十分だからである。それは「啓蒙のプロジェクトの失敗」を示している。マッキンタイアが言う「啓蒙」は道徳の根拠を合理的に説明しようとする思想のことだ。

 マッキンタイアは近代の特徴について次のように要約する。近代の哲学者は、前近代の倫理学の枠組みを壊した上で、述語を断片的に引き継いでいる。その語彙は、本来、目的論的世界観に基づいていたのに、機械論的世界観によって捉え直している。それにより事実と当為の分離を承認していく。そこからすべての役割の前に個人があるという認識を導き出す。

 こうした個人は共同体から解放されたと近代主義者は評価する。だが、無力化されたとも考えられる。近代倫理学は無力化を軽視しているけれども、それを検討すべきだとマッキンタイアは提案する。

 古来より道徳哲学は、未教化の人間、すなわち現実の人間像を認識し、自らのテロスを可能にした人間、すなわち理想の人間像を掲げ、その前者から後者へと至る美徳の教説を提示する。これは、煩悩に囚われた凡夫といった現実の人間が殺生をしないなどの徳目を守り、無心に瞑想をすると、悟りを開くという理想に到達できるといったことである。マッキンタイアによれば、近代の倫理学は実現可能な人間像を示さず、経験的に理解された現実の人間像に前近代から引き継いだ美徳を結びつけている。政教分離に伴い、近代は価値観の選択を個人に委ねているため、理想も個人に裁量権がある。これにより近代倫理学は理想を想定することができない。到達すべき理想がないのだから、美徳の根拠は義務や功利など客観的に正当化しようとしても、甲高い自己主張で終わらざるを得ない。結局は恣意的選択を道徳と言いくるめている。

 こうしたニヒリズムを克服するため、マッキンタイアは徳倫理学の復権・発展を提唱する。言うまでもなく、それにはさまざまな伝統があるが、最も合理的と彼が考えるアリストテレスを選び取る。次にマッキンタイアのアリストテレス理解を見てみよう。

第4章 マッキンタイアのアリストテレス理解
 アリストテレスは「善(The Good)」と「よきもの(A Good)」によって倫理学を展開する。その最高善、すなわちよきものの総体が「エウダイモニア」、すなわち幸福である。これを可能にする徳目が「美徳(Virtue)」で、その所有と行使が幸福につながると説く。「徳とは、それを所有し実行することによって実践に内属する善が獲得され、それを欠けばそうした善は何も獲得できないような、習得される人間の性質である」。その際、重要なのは「共通善(Common Good)」の実現である。これはポリスの規範であり、その実践を通じて個人と共同体の幸福が一致する。こうした政治社会の共通善に貢献する人格が幸福には不可欠である。と同時に、それは幸福を実現する具体的な場が共同体だということも意味する。

 この徳倫理学はルールより判断力を重視する。近代倫理学は道徳の規則作りに専心するが、アリストテレスはいかなる人格であるかに関心を寄せる。それは卓越性が美徳だということを意味する。また、近代が友愛を私的なものとしているのに対し、公的と捉えている。個人と共同体の幸福が一致するのであれば、講師は分離していない。共同体内で行われる個人の社交も公的とならざるを得ない。

 言うまでもなく、マッキンタイアはアリストテレスの時代的限界も承知している。古代の徳倫理学は、今日では容認し難い形而上学や生物学に立脚している。アリストテレスにとって奴隷は自明であるが、それは受け入れられない。また、すでに滅びたポリスを前提にしている。現実に存在しない政治社会に基づいた道徳哲学をそのまま展開することなどできない。さらに、アリストテレスはプラトンを継承したため、調和変調で、対立の意義の理解が弱い。ただし、マッキンタイアはアリストテレス理解の際にカトリシズムに依っているので、この点は必ずしも納得できるものではない。

 このような時代的・社会的限界を認めた上で、マッキンタイアはアリストテレスの徳倫理学を現代の文脈に即して再構築する。その試みを以下で見てみよう。

第5章 「実践」・「物語的秩序」・「伝統」
 思想史をたどりながら近代倫理学を批判し、アリストテレスに依拠しつつ、マッキンタイアは現代の徳倫理の可能性について説く。その際、徳倫理のメタ理論を三つの概念によって提示する。それは「実践(Practice)」・「物語的秩序(Narrative Order)」・「伝統(Tradition)」である。このメタ理論により現代への徳倫理学の貢献が明らかになる。

 すべての行為が「実践」というわけではない。「実践」は、マッキンタイアによれば、「首尾一貫した形態の複雑な社会的に確立された協力的な人間活動」である。複数の人間が組織的に行う活動の中に、よきものが実現されているという事実、ならびにそれを規定する卓越性の基準があるものが存在する。「実践」が高度になると、卓越性を持った達人が出現する。それを具体的に説明するため、マッキンタイアはゲームやスポーツを例示する。

 共同活動であるスポーツの試合やゲームの対局は一つの実践である。そこで示される個々のプレーや手は実践ではないが、その総体は試合や対局を構成する。これを援用すると、住宅を建設することは実践であるけれども、設計することやノコギリを引くこと、電気設備を設置することはそうではない。

 この実践には「内的(Internal)」と「外的(External)」の二つの善がある。前者は本質的で、その実践に固有の卓越性である。後者は偶有的であり、威信や名誉、金銭など見返りだ。また、内的は実践全体の共通利益、外的は個別的利益につながる。ナックルボールで打者を手玉に取り相手の得点を許さないことはインターナルな善、勝利投手となり勝ち星を積み上げて複数年契約を結ぶことはエクスターナルな善である。

 内的善は具体的な実践を通してでなければ発揮できない。だから、その認知には実践への参加が必要である。他方、外的善は必ずしもそうではない。マッキンタイアは外的善が優位になる実践のジレンマを憂慮する。報酬が目的となれば、プロ野球の試合で八百長をやっても構わないので、実戦は腐敗する。エクスターナルな善のために、チームにとっての共通善である勝利を無視してしまう。もちろん、外的善がなければ、実戦は維持できない。十分な報酬を用意されていなければ、八百長の誘惑に駆られかねない。

 内的善も外的善もあくまで共通善の実現に寄与するための契機である。その共通善の認識は実践への実際の参加を通じて養われる。これは「労働」と「教養」を積めば、社会の中の自分の意味が理解できるようになるというG・W・F・ヘーゲルの『精神現象学』における精神の発展と類似している。マッキンタイアが徳倫理学を現代の文脈で復権させようとする時、後でも触れるが、自意識の拡張の展開が『精神現象学』のそれに近接している。

 人間にとって「実践」は一つではない。人はさまざまな実践に参加している。そのため、「物語的秩序」を必要とする。異なった実践に参加すると、矛盾や対立が生じかねない。それを統一して理解するために求められるのが物語である。複数の実践に参与しつつ、物語によって統一した目的を理解することで、人は幸福に生きられる。

 さまざまな思いもかけぬ出来事に遭遇するのだから、物語は自分で描いたわけではない。その物語の主人公として生きること時、人生は成功と挫折の探究と表象され、人はそれを自覚する。人生は主人公として物語を「探究(Quest)」することだ。この物語は内的善を振り返る際に必要な装置でもある。

 物語の形成には「伝統」が不可欠である。自分が所属している諸々のコミュニティにも物語がある。マッキンタイアの言う「共同体」は家族や近所、地域、都市、エスニックなど複数の人間の集まりを指す。人はそういったコミュニティのネットワークに置かれている。人生の物語はアイデンティティの源泉であるこうした共同体のそれに埋めこまれている。そのアイデンティティには道徳的なものもあり、個人はさまざまな共同体の倫理に負っている。物語を見出す時、さまざまな共同体の一員であることを自覚する。物語的秩序を生きる個人はコミュニティの理解へと向かわざるを得ない。

第6章 社会関係資本と公共空間
 以上の節から明らかなように、マッキンタイアは「共同体主義者(Communitarian)」である。ただし、留保点がある。彼は共同体を個人に先行させていない。個人の意識から出発してさまざまな共同体を理解する。こうした認識の広がりはヘーゲルの『精神現象学』と類似した展開で、個人を起点にする近代を踏まえている。また、マッキンタイアは近代を前提にし、マッキンタイアのコミュニティには国家が含まれていない。彼は近代国家に否定的で、公共性の前提にしていない。この点はヘーゲルと異なっている。国家が道徳教育を通じて国民い特定の価値観を教化するなど論外である。さらに、善の探究は特殊な共同体の利益から進めざるを得ないが、マッキンタイアは共通善というより普遍的なものへと発展する。さまざまな共同体に参加しながら、認識が個から普遍へと広がっていく。具体的な物語を通じて不変を理解していくのだから、伝統が過去のみならず、未来に開かれている。マッキンタイアは進歩主義的・普遍主義的コミュニタリアンである。

 こうした留保点が分断された社会における公共空間の構築に示唆を与える。マッキンタイアは普遍を認める。ただし、それは特殊の先にあるわけではない。特殊で個別的な共同体の物語の理解を経て見出されるものだ。国家以外の共同体への参加を通じた普遍的な共通善を発見する。その普遍を具現化しているのが徳である。コミュニケーションを始める前提として徳を共通基盤とすることにより分断された社会における公共空間が構築できる。

 ホメロスでは「屈強さ」、アリストテレスにおいては「勇敢さ」、初期キリスト教は「謙虚さ」がそれぞれ美徳と呼ばれている。時代や社会によって多種多様な「徳」があり、その間には「矛盾」も認められる。けれども、そうした表面的な多様性にもかかわらず、中心となる徳の普遍的概念が見出されうるとマッキンタイアは次のように述べている。

 ルター派の牧師は子供に、状況や結果がどうあろうとも何時でもみんなに本当のことを言うべきだと信じるように育てた。カントはその子供たちの一人だった。伝統的なバンツー族の両親は、家族が魔法の攻撃にさらされる危険があるので、知らない人には本当のことを言わないように、子供を育てた。私たちの文化では、新しい帽子を披露するために大叔母の家に招かれた時、本当のことを言わないように育てられた。しかしこれらのどの掟も、本当のことを言うという美徳が認められていることを示している。

 すべての徳目が共同体間で共有されているわけではないだろう。しかし、共通している者も確かにある。そうした徳に普遍性を見出せる。

 自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成しているとするのが近代の発想である。その個々人は諸関係によって結びついている。近年、こうした人間関係を「社会関係資本(Social Capital)」として捉えることが提案されている。これは互酬性の協力関係、すなわち信頼とお互い様の人間関係のこと、社会を成り立たせている前提である。今日、この概念はさまざまな領域で取り入れられている。近代社会をアトミズム的無力な個人の集まりに堕することを防ぐ。マッキンタイアの「共同体」は広義であるから、この「社会関係資本として捉える方が適切だろう。

 この社会関係資本が徳倫理学によって公共性を帯びる。社会関係資本は、近代主義の観点からみれば、必ずしも公的ではない。ただ、徳倫理学はコミュニティの伝統に立脚する物語的秩序の実践を通じて共通善を発見すると説いている。マッキンタイアの「共同体」は社会関係資本に置き換えられるので、それは共通是、すなわち公共性へと向かう。

 近代社会もそれを構成する市民の間で美徳の所有・実行を暗黙の前提にしている。ハーバーマスは近代の公共性がコミュニケーションによって構築されると指摘するが、それは他の考えの発言を認めることや少数意見を尊重することなどの徳の上で成り立つ。美徳を共有してコミュニケーションが始り、信頼とお互い様の関係が広がったり、強化したりする。公共性はこうした社会関係資本の蓄積によって形成される。

 社会関係資本の蓄積は信頼が増すことを必要とするにで、認められた徳を所有・実行する人格がそれを可能にする。美徳を顧みない人物は信用されない。行為を動機や結果によって正当化しようとすれば、徳を共有していないから、意見のすれ違いが生じる。これが促進すると、社会関係資本が縮小し、人々の間は分断されてしまう。

 米国の民主主義には「伝統」があり、参加者はそれに基づく「物語的秩序」の登場人物としての「実践」が求められる。大統領選挙の勝者や敗者はいかに振る舞うべきかなどはこうした物語の中で理解される。また、大統領にもこの物語に認められる美徳の所有・行使する人格が必要とされる。徳が伴わない人物が動機や結果で正当化しようとすれば、それをめぐる議論がかみ合わなくなり、社会の分断化は進む。

 これはアメリカに限らない。日本は、立憲主義を近代の基本的政治原理に掲げ、東アジアで最も長い民主主義の「伝統」がある。そんな国であって、美徳を欠く人格の人物が相次いで首相の座に就くと、社会はより分断されていく。

 近代は、すでに述べた通り、目的論的世界観に代えて機械論的それを選択している。ところが、AI研究が明らかにした人間とコンピュータとの違いの一つが目的論の有無である。コンピュータには、幸福になるために計算するといった目的論的思考はない。一方、人間は目的論的に生きている。徳倫理学復権の意義は目的を人生において無視できないと再確認したことだ。人間は目的論的に生きているなら、徳が必要である。
〈了〉
参照文献
G・E・M・アンスコム他、『哲学の三人―アリストテレス・トマス・フレーゲ』、野本和幸・藤沢郁夫訳、勁草書房、1992年
井手英策他編、『分断社会・日本――なぜ私たちは引き裂かれるのか』、岩波ブックレット、2016年
加藤尚武他編・監訳、『徳倫理学基本論文集』、勁草書房、2015年
佐藤優他、『分断社会ニッポン』朝日選書、2016年
ユルゲン・ハーバーマス、『公共性の構造転換☆〔第2版〕』 、細谷貞雄他訳、未来社、1973年
アラスデア・マッキンタイア、『美徳なき時代』、篠崎栄訳、みすず書房、1993年
山岡龍一、『公共哲学』、放送大学教育振興会、2017年
「分断のアメリカ」、『日本経済新聞』、2020年
https://r.nikkei.com/topics/topic_DF_TB_19111503?disablepcview

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