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音楽家の政治的役割

西暦2016年、平成28年、皇紀2676年 6月23日 脱稿
西暦2017年、平成29年、皇紀2677年 1月9日 投稿

”音楽と政治” 
これは、実に難しいテーマである。

たとえ話をしよう。
政治的に重要なひとつのトピックについて、賛成派と反対派が議論をしている。やがて議論はヒートアップし、お互いがお互いを罵り合うまでにエキサイトする展開になった。みんなが平和を望んで議論しているのに、目の前に広がっているのは、平和からはほど遠い状況。もしこの場にアメリカのミュージシャンがいたなら、そのミュージシャン自身が支持する派閥を応援するだろう。「俺は賛成派の味方だぜ」と。一方で、反対派には、反対派のミュージシャンが加勢して、「あいつらダセえぞ。こんなの反対だ。みんなもこっちに来いよ」と声を上げる画が目に浮かぶ。意見の異なる陣営を打ち倒すためなら、応援のために無償でライブすることも厭わない。なんなら選挙用に一曲書きおろしてしまう。こうして選挙戦は大いに盛り上がりを見せるのだ。

端的に言って、僕は上に述べたような音楽家のあり方が嫌いだ。音楽と政治の関係については、個人的に確固とした理想を持っている。ロックスターには、不肖ぼくごとき一般人と同じ土俵に降りてきてほしくないのだ。もっと遥か上の次元の存在であってほしい。空に輝く星に手が届いたら幻滅だ。

たとえ話をしよう。
ある政治的なビッグイシューについて、賛成派と反対派が議論している。やがて議論はヒートアップし、お互いがお互いを罵り合うまでにエキサイトし始めた。その時、ミュージシャンに言ってほしい台詞がある。

「おい、小難しい話は後でいいから。まあ、とりあえず俺の歌でも聴けよ」

そして、その声に耳を貸すことなく喧嘩を続けようとする僕ら庶民に向けて、オレ様ロックスターはエレキギターを爆音で鳴らすのだ。一体何事だ。広場に集う有権者たちが音が鳴った方向に首を向ける。

一部の有権者はロックスターに怒声を浴びせる。

「おい、てめえ。今大事な話してるんだ。邪魔してんじゃねーよ」

しかし、過激派の声は、歪んだ爆音に掻き消されて聞こえない。

メロディアスな演奏、常人離れした声量、脱帽必至のライブパフォーマンスを目の前にし、気づけば大衆は身体を揺らし始めてしまう。その場にいる誰もが、広場にいる目的も忘れて歌詞を口ずさみ、手拍子を叩き、肩を組んで踊り出す。あっという間に皆がひとつになる。この瞬間だけは、広場には賛成派も反対派もいない。ただ、人の調和があるだけだ。

思想も主義主張もすっ飛ばし、右も左も吹っ飛ばし、方位磁針の針はぐるぐる回って定まらない。魔法のように束の間の平和空間を作り出す。これこそが音楽家の仕事じゃないか。もし自分に音楽の才があったなら、絶対にそんなミュージシャンになりたい。音楽と政治に関して、ずっとそう思っていた。

ところが、である。

先日、青山繁晴がついに出馬した。あの生きる伝説・青山繁晴がついに出馬したのだ。これは驚くべきことだ。椅子から転げ落ちるほどに。

世の中の人間を二通りの人間に分けたとして、仮に、激務をこなす人間か、それ以外の人間かの二通りに分けたとして、1998年から今これを書いている2016年に至るまで1日たりとも休日を取得できない尋常ならざる激務の上に、睡眠時間を2時間半まで切り詰めている、あの青山繁晴がついに出馬した。

世の中の人間を二通りの人間に分けたとして、仮に、自己保身のために生きる普通の人間か、大義のために生きる偉人かの二通りに分けたとして、我が国の自前資源メタンハイドレートを調査するために多額の個人借金まで背負った、あの青山繁晴がついに出馬した。

世の中の人間を二通りの人間に分けたとして、仮に、迷惑メールの届く人間か、それ以外の人間かの二通りに分けたとして、年間60万通におよぶ脅迫メールを受け取り、それでもまるで屈しない、あの青山繁晴がついに出馬した。

つまり、である。

もし、自分がミュージシャンだったら、青山繁晴応援オリジナルソングを書き下ろして、全面的に青山繁晴の支持を訴えたい。もし、ぼくがロックスターだったら、青山繁晴への投票を全身全霊で全てのファンに呼びかけたい。何なら応援ライブを開催したい。

話は全く逆さま、意見が180度変わってしまったのだ。

政治家の気持ちが少し分かった気がした。

それでも。方位磁針の針は今、真っ直ぐ未来を指している。