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ひみつの海外(こっそり読んでね!)

カナダ・トロントに住んでいたころ。無職に耐えられず日本食料品店で働いたことがあるのだけど、そこの日本人店員たちの醸し出すあまりの日本アッパレ!クール!ジャパン!感にばちばちやられてしまって、すぐにやめてしまった。
日本の文化は言語や食や美において優れていて、西洋の文化は雑だとか品がないだとかなんだかそういうざっくりとした議論(というよりぼやきであるといったほうが正しいと思われる)を聞いていると、
なんだってこのひとたちはこんなこというんだろう?
と不思議でならなかった。
比較できるほどわたしたちは似ていないし、
ただただ違うのである。
人類みな兄弟やら世界村状態なんてものはうそで、
わたしたちは完全に宇宙人レベルに違う環境において育ってきており、
それをここがこうだからこれはおかしいというのは、
エイリアンつかまえてきてお前の目ん玉すこし大きすぎるんじゃね等の八王子のチンピラと同じレベルのいちゃもんのつけ方である。

しかしかくいう私自身も
西洋に対して強いコンプレックスを抱いていた(る)ことは否めない。
それは日本を賛美するという方法をとらず、
卑下することによって私はじぶんの非凡感を肯定したかった。
英語をしゃべって英語の映画をみて、英語の本が読めるようなじぶんがかっこいいのではないか、と思ったのだ。
日本語をしゃべって日本の映画をみて日本の本を読んでいるじぶんが何か平凡に思えたのだった。
日本にいる、日本を出ない、日本で暮らす、
という選択がどことなくつまらないもので、

”海外にいま住んでるんだよね”

ということが無条件にわたしたちの脳内にかぁっこいい~!という感覚を呼び起こさせるのはいったいなんていうドーパミンの仕業なんだろうか。
カナダ在住のさまざまな国からやってきた友人たちをみてみると、彼らはこの手のドーパミンは保持していないように思われる。

カナダ:
”この前あったスティーブンいたじゃん、こんどフランス引っ越すらしいわ”
”あっ、そーなんだ。こっちよりは冬ましだろうからうらやましいね”

日本:
”この前あったスティーブンいたじゃん、こんどフランス引っ越すらしいわ”
”うっそーー!?まじ?海外?!すごーーーい!!!!かっこい~!”

わたしも例に漏れず後者・日本側の反応をとることは必至である。
前者側の反応をとっていたわたしを見たことがあるけどという方にはわたしが当時相当イキっていたという事実を今この場を借りてお詫びする。

この
”海外”
という言葉が表すとおり日本人の感覚には、
”わたしたち”と”海の外のどっか”という大きく2くくりの世界が存在している。
近頃頻繁に見かける
”海外の反応”ということば自体に、わたしは妙な違和感を覚えた。
諸国さまざままったく違う文化圏の国々、
燃える朝焼けをみながらスワヒリ語をはなしているひとたち、
高層ビルに住んでワインを転がしながら英語を話しているひとたち、
海沿いにいすをひっぱりだして今日の天気をイタリア語で話しているひとたち、これらを

”海外のひとたち”

と一刀両断するいさぎよさ。
すこし斬新すぎる切り口だとはおもわないだろうか。

おおくの国々は陸つづきにほかの国とつながっており、
またちょっとそこまで感覚でまったく違う文化圏に突入することが容易である。
海外、という一種のパラレルワールドが存在しえないほどにじぶんたちと他の国のひとたちが近いのである。
なのでもしここで仮にわたしが
「”海外”いこうとおもってんだよね」
といったとすると
「どこのこといってんの?え?どうしたの?」
とどこか遠いだれも知らないところにいきたいんだ的なつぶやきとみなされ心配されること必至である。

そもそも少なくともここカナダで海外および外国人、
というざっくりしたくくりの言葉を使っているひとをみたことがない。
「これ海外で流行ってるんだって」は必ず「これインドで流行ってるんだって」等具体的な国名を提示しない限りみなさんの頭上の???は点滅するばかりである。

隣の芝生は青くみえるというけども、
四方を海に囲まれた島国である日本は、
その芝生があまりにも遠くみえするぎるせいで月にうさぎがいて餅をついてるんだなぁと同じ理論で
”海外”というもうひとつのどこでもないなにか得体の知れない世界を作り上げてしまったのではないかと思われる。
それは、
上にあげた具体的な国々ととてもよく似ているけども、まったく違った世界である。
なにかぼんやりとした、鼻の高い人たちの大めのざっくりした”何か違う世界”である。

”海外にいく”

というとこんど月にいってくるからと同レベルの衝撃が私たち日本人の脳みそをいまだに潜在的にかけめぐっているに違いない。

そこを目指す人々は宇宙飛行士のそれよろしくなんだかすごいことをしているひとたち!となる。
海外で活躍する日本人に対する、ひとびとの並々ならぬ関心にはある種異様なものを感じる。
マー君がヤンキースで一塁に出たらしいよ!はガガーリンが月に向かっているらしいよ!に相当似たわくわく感覚なのではないかと推測される。
マー君が仙台で一塁にでたときはそんなに大騒ぎにならなかったはずである。

いまや科学やらものすごい早い飛行機だのインターネットだので世界すぐそこだよねってみな表面上はいいあっているけども、
じつは私たち日本人には自分たちだけがこっそり共有している、
”海外”
という夢世界があるのである。
そう考えると、なんだかかわいらしく、うれしい気持ちにならないだろうか。

この夢世界のことを、
私たちは”海外のひとたち”に見つからないようにこっそりしまって、いつまでもそっと胸を躍らせていたい。

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