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ロンドンでレストランオープンしたよ、そしてコロナ

3月2日、ロンドンの南の方にひっそりとおにぎり屋さんをオープンした。
女32歳、まさか外人に白い飯を握って暮らす日々がくるとは夢にも思わなかった。
日本で終電知らずの社畜人生を送ってきた私は、いまここでひとり米を研ぎ、店の外の草たちに水をやり、窓から差し込んでくる光たちを愛でながらいきている。

駅前の大通りから裏路地を一本入ると、そこには古びた倉庫やビルに囲まれたちょっとした広場があり、私の店はその隅っこに建っている掘っ立て小屋である。
たくさんのアーティストやらミュージシャン的な人々がスタジオとしてこの辺を利用しているようで、店にフラリと現れるおしゃべりな彼らは皆あまりにも個性豊かである。
ただ飯炊いて待ってるだけで私のやってることを好きな人が次々と訪れる、自分の店を持つってこんなに素敵なことなんだと私はもはや昔の雇われ人生に戻ることはできまいなうむビールを一杯ってな具合にのらりくらりとした毎日を送っていた。

そんな日々の中、
ニュースの片隅に躍っていた"新型コロナウイルス"の文字が日に日に増えていくのを感じていた。

近所で同じく飲食店を営む人々との会話がHow are you?もそこそこ、最新のコロナニュースについての話で持ちきりになっていく。

しかし誰もが「まぁそのうちなんとかなるだろう」的なムードでもって束の間の非現実感を楽しんでいたようにみえた。

しかし日に日に人々の消えていく街でレストランを開け続けるのはなんとなく自分がつげ義春の世界にきてしまったような、やっと築いた日常がどんどんと得体のしれないなにかに掻き消されていくような――実に奇妙な幾日が続き、私はとうとうレストランを閉めることに決めた。

近所の飲食店の仲間たちも「私も明日か明後日には閉めると思う…」と言って、まあこれが落ち着いたら、そろそろあったかくなってくるしみんなでバーベキューしようね、なんて簡単な口約束をして別れた。

――それからかれこれ三週間たった。

もはやあったかくなってくるどころでなく、あつい、春真っ盛りである。

新しいレストランの近くに借りたアパートへの引っ越しの話もナシになり、コロナホームレスと化した私はかつて住んでいた北ロンドンのウェアハウス(元倉庫を改装したスタジオ兼アパートタイプのシェアハウス)にまた置いてもらえることになった。

ここで私は12人のバラエティ豊かな人々と集団引きこもり生活を送っている。

朝早くもない時間に起床、ジュース飲んでジョギング、公園で楽しそうにしていると逮捕されるので、なるだけ真剣な顔でもって他のランナーをかわしながら走る―そのあと家のみんなでヨガしてランチして、アフタヌーンティーとクッキー片手にぺちゃくちゃ話しているうちに夕暮れ、皆でやたら手間のかかる夕飯をこしらえて舌鼓、食後はシャンパン開けて陽気なレコード、踊る、たまに誰かが立ち上がって詩を読んだり何か演奏したりする――。

まるで自分が突然イギリスの貴族にでもなってしまったみたいだった。
人間は不思議なもので、私は今までの全てを置き去りにして、この新しく享楽的な毎日にすっかり溶け込んでいた。

そんなある日の深夜、
ハウスメンバーの中で唯一平常時と変わらず働いている看護婦のアミーがゲッソリとした様子で帰ってきた。
貴族たちは戯れをやめ彼女の話に耳を傾ける。

事態はどんどん悪くなっている、
私たちは多分、
あと一年は元の生活に戻れないかも――。

レコードの音が途切れる。さあと顔を上げた貴族たちは彼女にシャンパンをすすめるすすめる、さてすっかり気分のよくなったアミーも貴族たちとともに踊る。私たちは飽きもせずに笑い続けて夜は更ける、そのまま貴族たちは明日のことも気にせず、朝日とともに眠りにつくのだ。

私がやっと、
この異国の地で築いたあの陽当たりのいいレストランでの日々は いまとなっては寝て起きてあれっ思い出そうとしても思い出せない、その感触だけが喉に刺さった小骨のようにつっかえている――そういう夢に似ていた。

そうだわたしはかつて何をしていたんだっけ。

友達と公園でバトミントンしたり、
パブで酔っ払ってビールこぼしたり、
道端でおっさんと天気の話をしたり、
ひどい音楽のかかっているパーティーをだれかと抜け出したり、
駅前のピザ屋で朝までコーラでねばったり、
電車で隣の人の新聞を盗み読みしたり、

こうやって湧き出てくる取るに足らない記憶の断片たちが、またわたしの喉元に小骨を撒き散らす。
わたしはこうなって初めて、
自分がかつての日常をどうしようもなく愛していたことに気づく。
恋人に逃げられて初めて大切さに気づくありがちパターンである。

日々子(仮)ごめんね、お願いだから早く帰ってきておくれ、今度は絶対大事にするよ。

ほんとに。

本当の本当だよ。

この無数の小骨たちをずっと、できるだけずっと、心ゆくまで私の中につっかえさせておこう。
私には戻るべきそして戻りたい日常があるんだよ。
あまりにも忘れっぽい我が脳みそにキッチリ叩き込む、
忘れない忘れない忘れない。

日々子。

あなたにまた会える日を、心待ちにしています。






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