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メメント・モリーthanatophobia(?)のこと

診断されたわけではありませんが、私はおそらくタナトフォビアだと思います(というか、タナトフォビアって診断がつくようなことってあるのでしょうか?そして治療法は......?)。

ごく単純に「死(ぬの)が怖い」という表現は間違いでもないのですが、「死が怖い」って一体全体どういうことだろうと考えれば考えるほど世界から自分が切り離されていくような感覚、不安に襲われるのです。その一方で私は希死念慮もありますので、ますます不思議です。

それは子供の頃からでした。人の大勢いるところ、例えば海や盆踊りに行って、行楽や祭りを楽しんでいる人たちをボゥっと眺めていると突然、目に映るすべてがネガポジ反転して見えたり(目や脳がおかしくなったわけではありません、多分)、目の前の世界が失敗した日光写真、あるいは瞼の裏側の残像のごとく動かず止まって見えたりもしました。それがどう死の恐怖とつながるのか自分でもよく分かりませんが、世界が終わる、つまり自分も消えると漠然とした感じが、とても恐ろしかったのです。けれど何がきっかけで死の恐怖を感じるようになったのか分かりません。特に身近な人の生死を目の当たりにした経験があったわけでもありません。

ネガポジ反転された、知っている人も見知らぬ人も、100年後にはみんな死んでるんだよなぁ、ここには存在していないのだなぁと思うと太陽は海を焦がし、月は落ちてくるのではないかというイメージが頭から離れなくなりました。今ではあまりそういうことはないのですが、やはり怖いものは怖いのです。

たまたまなのか分かりませんが、タナトフォビアだという方の中には、天体や宇宙、数字にも恐怖することが多い気がします(「無量大数」という響きにさえ恐ろしさを覚えました)。私は天体の写真はあまり好きではないものの、見ることができないというほどではないのですが、これまた子供の頃、星座を見ていると、なんて遠い、広いところにあるのだろうかと思うと気が遠くなり倒れそうになることが何度もありました。ジーっと見ていると自分の身体がいつの間にかふわりと浮かんで、宇宙の空間や端っこに投げ出されて置き去りにされそうな恐怖感ーーこんなことを感じたことがない人にはいったい何を言っているんだ?と思われそうですね。似たようなことを感じたことのある人しか、分からなくて当然なのですが。

天体が怖い!と感じた一番古い記憶は、家にあった図鑑の「宇宙」のページを見たときです。地球からほかの惑星への距離がイラストと文章で説明されていて、月までは歩いたらどのくらい掛かるか、木星まではひかり号(当時のぞみはありませんでした)で何10年だの書かれているのを見て恐怖を覚えたのです。月にはすでに人類は到達していましたから、さほど怖くはなかったのですが、他の惑星は......しかもスペースシャトルではなく新幹線という身近な乗り物が例に出されているところが妙にリアルなのかそうでないのか分からないところがたまらなく恐ろしかったのですーーのちに教科書で谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」を読んだ時にも同じようなぞわぞわとした気持ちがしました。サンテグジュペリの「夜間飛行」、そして作者自身の死もこれらと似た薫りがして恐ろしいですし、英語の授業で'never to return'という言葉が出てきた時もクラクラしました。こうして思い出しながら書いている今も遠いどこかに誘われ、戻ってこられなさそうで怖いのです。いや、決して今いるところにいたいわけではないのですが、戻ってこられないっていう感覚は何故かものすごく恐ろしいのです。

なかなか不幸な人生を送ってきましたけれど、その割に(?)私は基本的には「終わりよければすべてよし」的な面がありますので、死ぬ1日前、いえ死ぬ少し前~瞬間に恐怖さえ感じなければーー少しわがままを言うならば幸せだと思いつつ逝けるならたとえ人生が多少不幸でもいい......とまでは思いませんが、恐ろしい死に方、不本意な死に方をしないためにどうしたらよいのかということはいつも考えています。

これまた説明というか表現が難しく、理解されそうもない感覚かと思いますが、ものを遺して死ぬのも大変恐ろしいのです。私がいなくなったのに世界は存在し続けるという恐怖、その世界に残される私の残像。天国や地獄、死後の世界は信じていませんので、あちら側に私の遺したものを持って行けないのが嫌だといっているのではありません。この話をして(滅多にしたことはありませんが)、理解されたことは一度もありませんので(理解してもらう前提で話したこともありません)、書かずにいられない、自分の中でしまっておくのがどうしても怖くて、似たような方はいないのかと多少期待して安心したい気持ちはあります。いたとしても、死の恐怖はなくなりそうもないけれど。死ぬのが怖いというよりは、自分が死んだ後も世界が続いてくという感覚が怖いのです。それこそ、世界から切り離されて宇宙の果て、時間のないところで永遠に置き去りにされるような恐ろしさ。想像すると震えがきます。死ねば無だということは理解はしているのですよ、なんとなくですが。

「ものを遺して死ぬのが怖い」の「もの」とは、これまた説明が困難です。ものとは概念なのか、実態のある何かなのか自分でもよく分からないのです。けれど形があるもの(金銭的価値は無関係ですーーそもそも換金できそうようなものを持っておりません)は出来るだけ遺したくないとは思っています。私が死ぬまでに何らかの形で処分したのを見届けてからではないと、怖くて死ねそうもないのですが、それは生きた証を全消去したいからという理由からではありません。この世に永久に忘れ物をしたような気分で死ぬのが嫌でたまらないのです。今の私には大事な人という存在はありませんので(今でなくともそんな人は過去にも存在したことはありませんが......)、誰かに託すわけにもいきません。そんな話をすると、弁護士だの、公正証書だの、遺言状だのという話を出されることが多いのですが、私は「自分で」意識がはっきりしている間に片づけたい、見届けたいのです。そうでなければまるで意味がありません。そんなものはあくまで紙きれでしかありません。その紙きれに書かれたことがきちんと死後に遂行されるか私が知るすべはありません。死ぬ瞬間に誰かを、何かを疑って憂いを残したくないのです。そうなるとやはり安楽死、現在スイスで行われているような自殺ほう助が私の理想の死に方です。自分の死の日時が予め分かっていれば、そのような憂いなく死に臨めます。ですが今のところ、非現実的ですね......。

あとこれは、タナトフォビアと関係あるのかないのか分かりませんが、私は詠み人知らず、作者不詳とされている作品がかなり恐ろしいです。美術館に行ったとき絵画の下に「作者不詳」と書かれた文字を見るとクラクラしてしまうくらいには。それよりはかなりマシですが、作者が亡くなり未完成の作品もちょっと怖いです。

また、これも似たような理由からだと思うのですが、途方もなく古いものも畏怖の対象です。イェルサレムに行ったとき、ローマ兵の遺した落書き、三目並べ、俗にいう〇×ゲームの跡を見ましたがあれはかなりの恐怖体験でした。聖墳墓教会の内部にも不届き者による、まるで暴走族の「〇〇参上!夜露死苦!」という落書きばりの文字が刻まれていて倒れそうでした。恋人同士と思われる男女の名前と共に1200何年何月何日とか......。本当に13世紀の人間が彫ったものかは知る由もありませんけれども。一方、古くても研究がなされていて謂れが明らかにされているものはそう怖くはありません。やはり私は何だかよく分からないものが怖いのだと思いますーー死もその一つだと。人間というものは自分の知らないものやことをとりわけ恐れる性質を少なからず持っていると思うのですが、その量が過剰な場合、恐怖症とされるのだと思います。何も死に関することのみならず、異常か正常かを判断する基準はあくまで量の問題な気がしてなりません。

歴史シミュレーションゲーム(実在人物が登場するもの)をしながら、ああ、いくらこちらが策略を練ったところでこの人たちってもうみんな死んでるんだよなぁ......などと思ってしまうこともあります。やっていて虚しくなることはないのですが、なんて自分は面倒くさい性質なのだろうかとほとほと嫌になります。

22世紀には君も俺も存在しないーー若い頃に3か月で振られた相手にミレニアム直前に言われた言葉も相当怖いです、今思い返すと。あの時は失恋のショックの方が上回り、そこまでの怖さを感じる余裕などはなかったですが。