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友達の定義

こんばんは、もなかです。

友達の定義ってなんでしょうか。
私は隣の席になって、話すようになったらもう友達、おはようの挨拶をしたら友達。

友達の定義は人それぞれで、カウンセラーの先生がそれって本当に友達なの?大してよく知りもしない相手なのにもう友達なの?
例えば、朝や帰りの挨拶をしてくれなかったらそれは友達って言える?
それってただのクラスメイトじゃないかな、と教えて下さったので、確かにそうだなぁ、友達っていう枠に当てはめてしまうと、自然と自分に何かしてくれると期待する。だけど、相手はただのクラスメイトだから、自分には何もしてくれない赤の他人。そこで現実とのギャップが生じて、自分に魅力がないから、自分が面白くないから、と言った自己否定が始まる。

それって、おかしくないか。

だから、私はすぐに友達だと思うのをやめてただのクラスメイト達という枠にはめた。そしたらなんかしっくり来た。ただのクラスメイトなら期待なんてしないし、話せたらラッキーくらいの軽い気持ちで接することが出来る。友達になったら、嫌われないようにしよう、とか好かれたい、とか相手を見ないで自分ばっかり見てるからご機嫌取りみたいになってしまう。

そんなの嫌だし、自分がない。

そして、今日もまた新しいことを教わった。

それは、あなたの友達は尊敬出来る人ですか?という質問だった。尊敬、といっても大きすぎるので、この人のこんな所がいいな、こんな所が好きだな、も思える所がある人と付き合っていますか、と聞かれた。
正直、私は思わなかった。
相手の嫌なところ、自分勝手だなと思えところしか見えていなくて、むしろ私が尽くしているとさえ思った。相手に怒りと不満しか無かった。

だとしたら、本当に尊敬出来るな、凄いなと思える友達は2〜3人しかいなかった。
私の人生で出会う人の多くは友達にはなれず、知人もしくは利用価値があるから付き合おうと思う人だけになる。

そもそも私は、他人を見よう、知ろうと思っていなかった場合可能性もある。自分のことで手一杯で考える余裕がなかった。
歳を重ねるに連れ、友達を作るのが難しくなってきた。劣等感、自己嫌悪、承認欲求、孤立する不安、これらの思いに囚われて自分にとって良い人間関係を作ることが出来なくなった。相手に尊敬できる部分がない。人の悪口を言ったり、貶したり、相手を思いやれない自分勝手さ。まだ19〜20そこらの人間ってそうなのかもしれない。
もちろん、自分も含めて。

学校は勉強する所。自分が行きたくて行ってる場所。だから友達より勉強が優先。
その考えは確かに合っているし、そう思えたら良いと思う。しかし、友達のいない学校生活は私にとっては苦痛でしかない。何のために学校へ来てる?そもそもなんのために私は生きてるの?
私は学校で孤立している訳では無く、気軽に話せる友達はいる。一緒に行動したり、休日には遊ぶ友達もいる。だけど、孤独。ずっと一人ぼっちな気がする。心が通ったと思える瞬間が無い。本当なんのために生きてるんだろう。世界は素敵なこと、感動すること、幸せなこと、有難いことで満ち溢れているのに。

ふと、鈍感な世界で生きてる人が羨ましく感じる。些細なことにも傷つかず、能天気でいられる。
だけどそんなのは嫌だ。
自分はそれでストレスなく幸せに生きていけるだろう。

鈍感と気にしすぎ、この中間でいられたら良かっなぁ。

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