見出し画像

御能拝観

能を見て、今の時代にピッタリと感じた。とにかく、間(ま)を楽しむ日本独特の感じ。

最初にゆっくりと能楽師がすり足で現れた時に、おーーっと思った。昨今では、動画を倍速で見るなりして、とにかく知識を詰め込んで解釈していく世界感。こちらの能は、0.1倍速くらいか?とにかく、ゆっくり進む、このスピードで演じるから、余白を徹底して想像しろと言わんばかり。演者は、能面をかぶっているので、表情すらわからないし、発している言葉も不確か。一方、演者も能面からの視界は著しく狭い。存分な余白だらけの中で想像を激しくぶつけ合う。

近頃、考える事になれていない我々は、想像を存分に楽しむ事も出来ず、道理をつなげようと必死に試みるが頓挫して睡魔に襲われる。何とか必死で想像して、感じるようとするが、未熟な自分を認識するばかり。

人間は、言葉や文字や数字、多くの具体的手段を発見して、どんどんバカになっているかもしれない。動物達は、具体的かつ明確な伝達手段を持たずに集団行動を営んでいる。何種類かの意志表示や合図はあるかもしれないが、それを聞いた側の想像力こそ、人間とはくらべものにならないのだろう。

現在、ビジネス上でもビジョン、ミッション、バリューなどが使われているが、もはや聞き手側が箇条書きにしてもらわない限り行動すべき事が具体的に想像できない状態。人間は、とても便利なモノを生み出し続ける代わりに失ってきたモノもあるのかもしれない。

世の中を分断して、その分断世界の論理を積み上げる事で、もはや発展できない閉塞感を最近は感じる。ChatGPTに代表されるようなAIの汎用化も進み、どんどん人間の具体的行動を高速で処理してくれるようになる。しかし、一方で高速で処理したところで閉塞感へまっしぐらに進むスピードが速くなるだけという虚しさも。。。

まっしぐらに進む部分は、AIに丸投げして人間は間(ま)を楽しんで、想像力を取り戻してもいいのではないか。余白の時代ともいわれる所以か。

たまたま、能の拝観をする前に、鈴木大拙氏の動画を見ていて、名言を聞いた。「分かったようで分からない。でも、分かってないとも言い切れない。」まさしく、間(ま)とはそういうモノという気がした。

サトヤマカイギもこんな間(ま)を大切にしたい。

今年の夏に行うサトヤマカイギは、標高2400mの白山室堂で行う。東京から新幹線2時間強+バス1時間半+徒歩4時間強の地、大いに間(ま)を感じる時間を作ろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?