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喜怒哀楽

「幸福について」のつづきである。著者が主張していることではないけれども、人間には喜怒哀楽といった感情がある。それが普通である。飯食って糞して寝るだけであればもはや人間とは言えない。という考え方が普通だと思う。良いか悪いかは別にしてもである。会社に行って仕事しているふりをしてなんとなく一日が過ぎていく。そうなればもはや人間らしくはない。ここで仕事とはなにか?を弁ずるつもりは毛頭ない。それぞれのスタンスというものがある。全てを否定もしないし、肯定もしない。

「会社に来て昼飯食って糞して帰るだけか!!」と誰に向かってでもなく憤慨していた上司のことを思い出す。なに怒っているのよ?まさに「怒」なっている。いっぽうではそれを側で聞いている部下は哀れな会社だ、自分はそこの社員かよと、「哀」しみに暮れるのである。定時になって会社の呪縛から解き放たれると群れをなして、「さっ、飲みに行くぞ」の掛け声で「怒」「悲」共々、よきにはからえば「楽」しい夜の街が大きな口を開けて飲み込んでくれるのだ。どんな下戸でもステーキハウスで「下々の者たちは大変だね」と薄ら笑いを浮かべ、大酒飲みは何も考えずに飛沫を飛ばしながら大声で話す。まさにメディアが「喜」び飛びつきそうな三面記事ネタが出来上がる。その後に待っているのが謝罪と反省である。ただし、反省はしているふりであることが多いと推察する。謝罪は本心がなくとも人前で頭を下げれば文句はあるまい。また文句は言うまい。ただ反省はしているかしていないかは測り知れない。態度で示すのは難しいからだ。反省の弁は、弁であって口だけかもしれない。そこを突き回してまた周囲は「喜」び、「怒」り、「哀」しむのであって、ちっとも「楽」にならないのだ。人間の感情は、まさに人間に暇を与えてくれないのだ。そして悪いことにその感情が人間を不幸にしているかもしれないのだ。ではどうすれば良いのか?感情を持たなければ良い。まさに飯食って糞して寝てれば良いのだ。極論を言えばである。

人間には感情があると共に人間が作り出した社会の中で支え合って生きているはずである。支え合っていると思いたい。おそらく思いたいと考えるのはそうではない場面が多いいのではないかと勝手に推っているからかもしれない。では支えられていないと強く印象をもった経験はこれまであったか?実はとても薄いのだ。ひょっとすると支えてくれた人たち(親類縁者以外)を道具のようにしか扱ってきたのかもしれない。なんと悍ましい。「俺をパシリに使いやがって」と文句をたれていたぞとちくりを入れてきた先輩上司のことを思い出す。これが俺の会社の話だ。

話をもとに戻す。人を不幸にしているのは感情である。感情を持たないのは人には無理なので、そういった感情に苛むことがないように行動して言動を慎めば良いだけのことである。「へぇ〜、知ったような口きくじゃん。」って聞こえてきそうだけれども試してごらんなさいよ。きっと不幸にはならないから。幸せとは感じないかもしれないけれども。

「幸福とは」つづく。

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