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静かな世界

何から書こうかな。
順を追うのが苦手だから、思い付くままに書こう。

Facebookを辞めた。厳密に言えば「利用停止」なので、ログインすればこれまで通りに使える。
辞めた理由は一つで、「疲れたから」だ。

元々、Facebookは登録すらしていなかった。一昨年の12月に、“レターポット”というサービスを利用するために登録をした。

これを読んでくれている人のどれだけが知っているかわからないけれど、西野亮廣さんのオンラインサロンというものにも入ってみた。

元々使っていなくて突然始めたものだから、繋がっているお友達は、そのオンラインサロン周辺の人がほとんど。地元の友達とも繋がっていたけど、Facebookなんかもうほとんどの人が動かしていない。

共有された価値観やノリがあって、それがすごくすごく嫌になったのでオンラインサロンをまず辞めて、それからFacebookも嫌になってきたので辞めた。

TwitterやInstagramでは、元々その周辺の人たちと繋がっていない。

するとどうなったか。驚くほど、その周辺で行われるイベントや、発せられる言語や、ノリや、某の発信が流れてこない。

世界はこんなにも静かなんだと感じている。

内輪から外れて、外から見たときに、その熱気の異質さを感じざるを得ない。
これは中にいると気付けないことだなぁ。

その中に何万人といることはシンプルにすごいのだけど、例えばいつ誰が武道館でコンサートをしているのか知らないように、その人のことを追いかけていなければ、外にいると何も「知らない」。

巨人軍がいつ東京ドームで試合をしているのか、開催日には5万人も集まっているのに、野球に興味のない人はそれを当たり前のように知らないんだ。
何万人がそれに熱狂しようと、大多数の人にはさして関係のないことなんだよね。

無論、無理くりアンテナを外したから、余計に情報が目に入らなくなっているのだけど、世界はこんなにも無関係な場所で各々のリズムで回っているんだと気付いた。

貶すこともなければ荷担することもなく、知らないまま生活している。何不自由なく。
これは何も、オンラインサロンだとか、誰ぞやの何だということに限らず、人はほとんどのことを知らないまま生きる。

「知った気になる」ことの怖さを少し感じている。

何万人規模の出来事でさえほとんどの人に届いていないのだから、自分が箸にも棒にもかからず誰にも知られていないのなんか、当たり前としか言いようがないよね。

そこに主張や価値観を絡めて、「わかってくれ」だとか、「これをわからないなら時代遅れだ」とか、そんな滅多なことは言えっこないや。
そして自分のやっている正しくて楽しいことを知られるために仲間の数を増やそうというのも、なんとなく感じが悪くてやりたくない。

もっともっと広いところで、静かに、そして人は各々のペースで、各々の持ち場で生きている。ただそれだけのことだった。

やっぱり、というかなんというか、ぼくは何事にも「夢中になりきれない」と感じている。

同じ阿呆なら踊らな損だと言われても、踊りたくなければ踊るほうが“やり損”なんだよな。

祭りに参加しない阿呆がいても、無理に誘わずそっとしておいてあげてほしいものだね。


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