マガジンのカバー画像

自由詩、散文詩

15
現代の日本語による自由詩または散文詩
運営しているクリエイター

記事一覧

[詩] 遠い目

[詩] 遠い目

〈春は暑い〉と祖父はよく言った。躑躅色の広がる庭から戻ってくると、汗だくになった日本手拭いの頰被りを取りながら、離れの縁に腰をおろした。汗がながれる。書斎人ではない老人の弛んだ首筋は、よく日に焼けている。
庭仕事をねぎらって祖母がお茶を運んでくる。もっと冷えたのはないのか、などと爺が言うものだから押し問答になる。それも毎年のこと。茶碗を片してしまうと水屋から、そろそろお相撲がはじまりますよ、と声が

もっとみる
[詩] 君を見送る

[詩] 君を見送る

石が好き、と言ったな
秀才の君が
そう口にしたせいで
もう諦めるほかはなかろう、と
皆んなでがっかりしたのを
知らないだろう

ゆく手につづく
曲がりくねった長い道、いや
途切れてしまう細い道、いや
高みへとつづく一筋の道を登れ
火口を探り、海溝へ挑んで求めよ
未知の石を手に入れよ

君が聞くのは
惑星の出自の物語
抱きしめようとした幼なじみを
黴の湿地に置き去りにしたまま……

峠への急な坂をお

もっとみる
[詩] すごいもの

[詩] すごいもの

下りながら
着くかも知れない底のことを
気にかけながら
慎重に足をはこぶ

上りながら
どこかで途切れてはいないかと
気をもみながら
両足に力がはいる

歩みをすすめれば
どんなに低いところへでも
ずっと高く遠い頂にさえ
たどり着ける

地核に向く重力ベクトルを
踏み板で細分すれば
外の見てみたい光景へと
自力で近づいてゆける

魂の残り香と
寂しみの重さを
忘れてしまわないように、また
階段の手

もっとみる
[詩] 消える

[詩] 消える

この駅を出るともう店がないからもう少し買い足しておこう、と言ってJ氏は売店に寄る。板チョコはエネルギー補給にも使えるし、包み紙の銀紙があとで役に立つからな、ほら五枚買えたぞ、と満足そうに品を受け取る。すぐに山の方へと歩き始める。向こうの橋の袂から沢を登るんだ、と指でさしつつ先を急ぐので慌ててついて行った。

J氏は近所に住んでいる。親子ほど年が離れているものの子どものいないせいか、いろいろなことを

もっとみる
[詩] 筆と石鹸

[詩] 筆と石鹸

大きな赤い屋根のうちに先生は住んでいた。一階の扉が大きく開くアトリエで、古代ギリシャ人みたいな髪と髭をしていつもひとり絵を描いていた。

〈見たままに描くんだ〉と、教えた。なめらかに筆を動かして艶のある色を塗った。太めの筆の少し上をつまむように握ってパレットで色をつくると、筆の先から色彩がひとりでに流れでてゆく。〈目に入るけしきに空白はないだろう。だからどの色も大切にしてキャンバスを埋めてゆくんだ

もっとみる
[詩] 声

[詩] 声

テレビを突然消したものだから茶の間は混乱した。今夜、皆で歌番組を見ていると、爺の左手が急に電源を切ったのだ。姉や母や婆が〈いいところなのに〉と口々に小声を尖らせる。何が我慢できなかったのか、爺はもう土間に降りようとしている。〈点けてもいい?〉と中学生の姉。もう少し待ちなさい、と父。〈戦争から戻ってかれこれ三十年にはなるのにねえ〉蜜柑を取ろうとしていつも通りに婆が尻をあげる。女の声高い歌謡曲がつっと

もっとみる
[詩]名前

[詩]名前

お彼岸には一族が集まることになっている。と、言っても集まるのはせいぜい十余人。立ち居が不自由になってきた伯父伯母は年を追うごとに減って、とうとう一人になってしまった母は車椅子で参加する。齢百と言われればそうとも見える老人もいる。幾人かの若い人は、どこの誰かもう判らない。
菩提寺の奥に墓所がある。並んでいる墓石には、苔生したのも雨風に徹底的に丸められたのもある。殆んどの世話は寺男に任せているのだが、

もっとみる
[詩]息子の太い腕

[詩]息子の太い腕

まだ日も落ち切らない夕方。
いつものパブの薄暗い店内にはもう一人二人の客がいた。機嫌などと言うものはとうに忘れてしまった店主が、パイント・グラスに視線をむけて〈いつものですね〉と一言も発せず訊いてきた。
大した仕事のある身の上でもないが、その日のことなどを思いだしながら、晩飯前にここへ寄って一人エールをぐずぐずやるのが習いなのだ。
娘は去年遠くへ嫁いだのよ、と女房だったのがこの前言って寄越した。そ

もっとみる
[詩]春に見送る

[詩]春に見送る

〈先に行って、あとからすぐ追いかけるから〉
振り返る仲間に〈気にしないで〉と声をかける
一緒にトレイル・ランニングしている途中で
急に左手の指が重くなって遅れはじめる
たかが指一本のことだから無視するつもりだったが
ますます重くなって、みるみる走れなくなった
歩くのも徐々に難しくなって
誤魔化せなくなった
走り去る仲間の背に向かって大声を出す
〈大丈夫だから、皆んなお先にどうぞ〉
巨大化して仔犬

もっとみる
[詩]写真

[詩]写真

かなり離れた町から越してきて
線路にほど近いアパートに住みついた
少しの本とレコードしかない部屋にも
朝日が射し込んで、風が吹き抜けた
ネオンを少し含んだ夜もやってきた
いつものレコードに針を落とすだけで
十分、楽しかったし
一日中窓の外を眺めている
たったそれだけで、どこか心がおどった

画材を貸し借りしたり
眠らずに製作を続けてもみたが
大したものはあらわれなかった
書きとめてはみたものの

もっとみる
[詩]白鳥

[詩]白鳥

「コーヒーをお願いします」
「カフェ・オ・レをお願いします」

五秒の間 空を見てから
  「はい」
三秒の間 にっこりと、笑う

マスターにオーダーを伝えて
いつものようにこぼさずに 運ぶ
そう、いい調子 いい感じ

ギャルソンもマダムも 見ています
がんばらない がんばらない
これでも力を合わせて 見ています

ゆっくりゆっくりやって来た来た
  「はい どうぞ」
「どうも、ありがとう」

[詩]はじまり

[詩]はじまり

オレンジ色にぼんやりと明けて
夢の裾から抜けだす朝
明るみにうすく目を開くと
 天井をまだらに横切ったのは
  見ていたはずの夢の名残りか
   昨日のつむじ風の切れ端か、いや
  子どものころの記憶の影だろうか
 首と手足が胴体に繋がり出せば
朝日の染み入る微かな音……
カーテンは金色に燃え
窓を開ければ風がはやしたてる
この街のざわめきと
この街で生きるものに、今日こそ
向い合うと誓うがよい

[詩]風が吹いて

[詩]風が吹いて

何でもゆっくりのさとこちゃん
自慢の長い髪で散歩するのも
人と話すのも座ったままで
ゆっくりゆっくり

坂にさしかかったとき
ふと
〈こんにちは、さとこちゃん〉
と、明るく呼ばれた
顎の軌跡を記録させるように
ゆっくり振り返ると
すうっと風が吹きこんできた
髪がふわりとふくらんで
また肩まで降りてくると
息をととのえてから大きく開く口
〈 こ・ん・に・ち・は 〉
と、遠い人に言った

二人は朗らか

もっとみる
[詩]近く遠く

[詩]近く遠く

コツコツと歩いてその石畳を聞き
シュッと映る鞄をウィンドウに見る
風の音が空高く響いて
ガラスの高層ビルは白雲を運んでいく
人が訊いても街はこたえず
鳥が鳴いても街は話さない
明るくも眩しいのではない
切れ込む陰に納められるだけ
耳を傾けたのは近く遠く
見ていたのは近く遠く
毎日毎日ここを通って
学校へ会社へいつもの場所へ
声も色も手触りもすっかり変わってしまって
 そして
幾分は腑に落ちた夕暮れ

もっとみる