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佐々木さとる⇄斑山羊
2024年4月5日 19:05
〈春は暑い〉と祖父はよく言った。躑躅色の広がる庭から戻ってくると、汗だくになった日本手拭いの頰被りを取りながら、離れの縁に腰をおろした。汗がながれる。書斎人ではない老人の弛んだ首筋は、よく日に焼けている。庭仕事をねぎらって祖母がお茶を運んでくる。もっと冷えたのはないのか、などと爺が言うものだから押し問答になる。それも毎年のこと。茶碗を片してしまうと水屋から、そろそろお相撲がはじまりますよ、と声が
2024年3月14日 18:31
石が好き、と言ったな秀才の君がそう口にしたせいでもう諦めるほかはなかろう、と皆んなでがっかりしたのを知らないだろうゆく手につづく曲がりくねった長い道、いや途切れてしまう細い道、いや高みへとつづく一筋の道を登れ火口を探り、海溝へ挑んで求めよ未知の石を手に入れよ君が聞くのは惑星の出自の物語抱きしめようとした幼なじみを黴の湿地に置き去りにしたまま……峠への急な坂をお
2024年3月1日 00:15
下りながら着くかも知れない底のことを気にかけながら慎重に足をはこぶ上りながらどこかで途切れてはいないかと気をもみながら両足に力がはいる歩みをすすめればどんなに低いところへでもずっと高く遠い頂にさえたどり着ける地核に向く重力ベクトルを踏み板で細分すれば外の見てみたい光景へと自力で近づいてゆける魂の残り香と寂しみの重さを忘れてしまわないように、また階段の手
2024年1月23日 23:55
この駅を出るともう店がないからもう少し買い足しておこう、と言ってJ氏は売店に寄る。板チョコはエネルギー補給にも使えるし、包み紙の銀紙があとで役に立つからな、ほら五枚買えたぞ、と満足そうに品を受け取る。すぐに山の方へと歩き始める。向こうの橋の袂から沢を登るんだ、と指でさしつつ先を急ぐので慌ててついて行った。J氏は近所に住んでいる。親子ほど年が離れているものの子どものいないせいか、いろいろなことを
2024年1月6日 00:27
大きな赤い屋根のうちに先生は住んでいた。一階の扉が大きく開くアトリエで、古代ギリシャ人みたいな髪と髭をしていつもひとり絵を描いていた。〈見たままに描くんだ〉と、教えた。なめらかに筆を動かして艶のある色を塗った。太めの筆の少し上をつまむように握ってパレットで色をつくると、筆の先から色彩がひとりでに流れでてゆく。〈目に入るけしきに空白はないだろう。だからどの色も大切にしてキャンバスを埋めてゆくんだ
2023年12月28日 16:50
テレビを突然消したものだから茶の間は混乱した。今夜、皆で歌番組を見ていると、爺の左手が急に電源を切ったのだ。姉や母や婆が〈いいところなのに〉と口々に小声を尖らせる。何が我慢できなかったのか、爺はもう土間に降りようとしている。〈点けてもいい?〉と中学生の姉。もう少し待ちなさい、と父。〈戦争から戻ってかれこれ三十年にはなるのにねえ〉蜜柑を取ろうとしていつも通りに婆が尻をあげる。女の声高い歌謡曲がつっと
2023年12月1日 15:03
お彼岸には一族が集まることになっている。と、言っても集まるのはせいぜい十余人。立ち居が不自由になってきた伯父伯母は年を追うごとに減って、とうとう一人になってしまった母は車椅子で参加する。齢百と言われればそうとも見える老人もいる。幾人かの若い人は、どこの誰かもう判らない。菩提寺の奥に墓所がある。並んでいる墓石には、苔生したのも雨風に徹底的に丸められたのもある。殆んどの世話は寺男に任せているのだが、
2023年11月16日 12:52
まだ日も落ち切らない夕方。いつものパブの薄暗い店内にはもう一人二人の客がいた。機嫌などと言うものはとうに忘れてしまった店主が、パイント・グラスに視線をむけて〈いつものですね〉と一言も発せず訊いてきた。大した仕事のある身の上でもないが、その日のことなどを思いだしながら、晩飯前にここへ寄って一人エールをぐずぐずやるのが習いなのだ。娘は去年遠くへ嫁いだのよ、と女房だったのがこの前言って寄越した。そ
2021年2月15日 10:25
〈先に行って、あとからすぐ追いかけるから〉 振り返る仲間に〈気にしないで〉と声をかける一緒にトレイル・ランニングしている途中で急に左手の指が重くなって遅れはじめるたかが指一本のことだから無視するつもりだったがますます重くなって、みるみる走れなくなった歩くのも徐々に難しくなって誤魔化せなくなった走り去る仲間の背に向かって大声を出す〈大丈夫だから、皆んなお先にどうぞ〉巨大化して仔犬
2021年2月7日 16:48
かなり離れた町から越してきて線路にほど近いアパートに住みついた少しの本とレコードしかない部屋にも朝日が射し込んで、風が吹き抜けたネオンを少し含んだ夜もやってきたいつものレコードに針を落とすだけで十分、楽しかったし一日中窓の外を眺めているたったそれだけで、どこか心がおどった画材を貸し借りしたり眠らずに製作を続けてもみたが大したものはあらわれなかった書きとめてはみたもののあ
2021年1月31日 07:38
「コーヒーをお願いします」「カフェ・オ・レをお願いします」五秒の間 空を見てから 「はい」三秒の間 にっこりと、笑うマスターにオーダーを伝えていつものようにこぼさずに 運ぶそう、いい調子 いい感じギャルソンもマダムも 見ていますがんばらない がんばらないこれでも力を合わせて 見ていますゆっくりゆっくりやって来た来た 「はい どうぞ」「どうも、ありがとう」
2021年1月25日 13:41
オレンジ色にぼんやりと明けて夢の裾から抜けだす朝明るみにうすく目を開くと 天井をまだらに横切ったのは 見ていたはずの夢の名残りか 昨日のつむじ風の切れ端か、いや 子どものころの記憶の影だろうか 首と手足が胴体に繋がり出せば朝日の染み入る微かな音……カーテンは金色に燃え窓を開ければ風がはやしたてるこの街のざわめきとこの街で生きるものに、今日こそ向い合うと誓うがよい
2021年1月18日 10:52
何でもゆっくりのさとこちゃん自慢の長い髪で散歩するのも人と話すのも座ったままでゆっくりゆっくり坂にさしかかったときふと〈こんにちは、さとこちゃん〉と、明るく呼ばれた顎の軌跡を記録させるようにゆっくり振り返るとすうっと風が吹きこんできた髪がふわりとふくらんでまた肩まで降りてくると息をととのえてから大きく開く口〈 こ・ん・に・ち・は 〉と、遠い人に言った二人は朗らか
2020年9月27日 11:42
コツコツと歩いてその石畳を聞きシュッと映る鞄をウィンドウに見る風の音が空高く響いてガラスの高層ビルは白雲を運んでいく人が訊いても街はこたえず鳥が鳴いても街は話さない明るくも眩しいのではない切れ込む陰に納められるだけ耳を傾けたのは近く遠く見ていたのは近く遠く毎日毎日ここを通って学校へ会社へいつもの場所へ声も色も手触りもすっかり変わってしまって そして幾分は腑に落ちた夕暮れ