山名聡美

塔短歌会

山名聡美

塔短歌会

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村さん

 一年間の短歌日記の本。毎日、短歌+エッセイがある。短歌とエッセイがほどよく無関係なところがよい。  バッと開いたページを読むのも楽しいし、今日の日付を探して読むのも楽しい。  手の甲のメモは、中村さんだったのか、それとも?

    • 黒蟹県に行ってきました

      絲山秋子『神と黒蟹県』 架空の黒蟹県が舞台。 ひろくまっすぐな道路。 隣接市同士の対抗意識。 日本のどこかに、日本のどこにでもありそうな風景。 推理小説は、架空の都市が舞台になっていることが多い。それは、凄惨な事件を実在の都市で、フィクションとはいえ起こすと、都市のイメージダウンになるからなのか。 でも、逆に人気シリーズの推理ドラマが、京都や実在の温泉地を舞台にしていることもあるので、そうとも言えないか。観光名所のピーアールになりそうだ。 ともあれ、推理小説の架空の土地の

      • 河野裕子『うたの歳時記』

         桜、晩夏、年の暮など、季節ごとに、短歌や俳句が紹介されている。その季節に読むのはもちろん、季節に先立って読んで準備したり、季節が過ぎた後に、振り返って読むことができる。  季節ごとの歌を、念頭に置くことで、過ぎゆく時間に、奥行きができる。  『霜月』には、二首ならべて、次のような歌が紹介されている。  十一月は、もう少し先だけど、楽しみになってしまう。秋のおわりの、スモーキーな雨。内面の暗さと外の景色の暗さが一致するせいか、落ち着く。

        • カフェの時間

           以前よく行っていたカフェに久しぶりに行ってみた。電車を三つのりついでいく。  コロナ禍以来、足が遠のいていた。近所にいいカフェが見つかったこともあって、わざわざ電車にのるのが、大儀に思えた。  でも、プレヤッサという鶏肉のレモン煮が食べたくて、今日は電車にのった。  久しぶりのプレヤッサも、色の薄いコーヒーもよかった。  味覚や空間もたんのうしたが、なにより、時のながれを再発見した。日常とカフェの時間のながれはちがう。そして、カフェごとに時のながれ方がちがう。  これまでそ

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          友達のうた

          窓のない小部屋のようなひとだったあたたかくって散らかっていて ともだちは不思議なひとで夕暮れの駅のホームのベンチに似てた 離れすむきみと揃いの傘させば空がつながるような気がした

          友達のうた

          踏切り

           生きることに、「いつも」という副詞が付いているのが、すごい。なぜなら、死ぬまでは、生きているからだ。生きることは、その長短や密度に個人さこそあれ、一定期間、継続する状態だからだ。つまり、死なないかぎり、「いつも」生きていて、当然だから、「いつも」とは通常言わない。  そこにあえて「いつも」と付けることで、逆説的に、生の不確実性が立ち上がる。死につかまらないように生きるということだ。「踏切り」は、生と死の分岐点といえる。  「青嶺」を、遠くても希望だと、私は思いたい。

          旅先の時間

           旅をすると日常の時間の流れから、切り離された別の時間に身を置くことになる。旅先で立ち寄った場所の時間が、日常の時間と同様に流れているとはとても信じられない。  この歌の扇風機の回転は、時間の進行を表しているのではないだろうか。時間とは、私という認識する主体があってはじめて、存在するものだ。

          旅先の時間

          おっとせい

           社会になじめない。世間話が分からない。人と笑い合うことができない。人間嫌いの人間も、おっとせいから見れば、たんに、違う方向を見ている人間なのだろう。  「むこうむきおっとせい」と思うと、ちょっとかわいくなる。  

          おっとせい

          道頓堀

           この歌について、小池光が『茂吉を読む―五十代五歌集』で、盛大なツッコミを入れている。  東京にいて、渋民村を思うなら、落差があるから、歌の規範に沿っている。歌には、落差や飛躍が必要だ。この歌は、東西の盛り場を併置しただけで、歌になってないと言うのだ。  このツッコミがなければ、私はこの歌を大歌人の歌として、失敗に気付かないまま、通り過ぎてしまったことだろう。  「あめ」がかなにひらかれていて、やわらかな雨が感じられる。この歌は、韻律がうつくしい。外形の端正さと、内容のトンチ

          木立

           「丸いほっぺ」から、全体的にふっくらした様子を思い浮かべる。また、よく笑顔を見せていたのだろうなとも想像する。  「木立へ消える」から、後輩の身を案じる気持ちが感じられる。そして、職場に残る身として、仕事を回していく自らの不安もあるのだと思う。

          友の家

          この短さのなかに、「友」という言葉が2回出てくる。重ねて言うことで、友の不在が感じられるのが、不思議だ。英語でも、こうなるのだろうか。  後の歌を読むと、介護施設にいる友に、友の子と一緒に会いに行く前の晩なのだと分かる。  家、裏山、電車の地図が描けそうなくらい、場面がイメージしやすい。夜汽車のさびしさをきしませるような音。友がいなくてさびしいけれど、友の子の存在は心づよい感じがする。

          更地

           大勢のイベントに参加した後は、どうしても落ち込む。うまく話せなかった自分。出会った人達を思い出しては、輾転とする。  「更地」という建物に使う言葉を、人間に使うことで、考えたり、悩んだり、見栄を張ったりする、そんな人間のおかしな存在感が相対化される。  どうせ更地になると諦めきることで、かえって、人間くさく生ききる覚悟ができるのかもしれない。

          春宵

           短歌研究の小池光研究がたのしい。小池光のエッセイは読むのがたのしいが、短歌は自力ではたのしむ所まで辿り着けていなかった。それが今回、複数の評者の小池光短歌の読みをよんで、ちょっと手がかりが掴めそうだ。  小池光の短歌は、ぱっと読んで意味が分かるというより、じわじわ沁み込んで、いつしかクセになる味わいがある。  山下翔の「ビリヤードをやらせる店」の「やらせる」という言葉づかいに、小池光の文体の影響を感じた。味がある。  春宵一刻値千金という漢詩があるらしい。春の宵は千金に値す

          『サラダ記念日』を読む

           有名過ぎて、読んだ気になっていたが、改めて歌集を読むと、「こんな歌も作っているのか」と新鮮に感じた。  一首目、トーストのカリッと焼けた香ばしさと、夏のからりと晴れた空気が伝わってくる。  二首目、麻のスカートは涼しくて快適そうだ。けれども、気合いの入ったデート服という感じはしない。それが恋の終わりを感じさせる。  失恋の歌だが、ア音が多く、じめじめしていないところがいい。  三首目、「つるりと」がいい。若い女性のつるつるの肌を感じさせる。母の思いは直接には表現されていない

          『サラダ記念日』を読む

          ダンガリーシャツ

           「そのシャツ、可愛いね、ちょうだい」と、子どもにねだられて、譲ってしまった。襟裏のデザインは、他者が着てこそ、ちらりと見えて、良さに気づきやすい。藍色に、赤が映えることだろう。  

          ダンガリーシャツ

          片耳の馬

             馬の耳のパーツだけが、手の中にある。残りのパーツに想いを馳せている。  自らの欠落感を投影していると読むこともできる。    この歌も、モノを客観的に描写している。それなのに、読み手は、それ以上のイメージの広がりを受けとる。具体的には、女体を連想したり、人間の悲しみを連想する。  表現が簡潔で客観的だからこそ、読み手の想像力が刺激される。