山名聡美

塔短歌会

山名聡美

塔短歌会

最近の記事

  • 固定された記事

村さん

 一年間の短歌日記の本。毎日、短歌+エッセイがある。短歌とエッセイがほどよく無関係なところがよい。  バッと開いたページを読むのも楽しいし、今日の日付を探して読むのも楽しい。  手の甲のメモは、中村さんだったのか、それとも?

    • 自転車の短歌

       自転車は一台あれば用が足りる。なぜなら、私の身体が一つだからだ。とはいえ、故障したりした時のことを考えると、もう一台あるのも悪くない。  二台所有するとなると、なるべく同じ頻度で、それぞれを稼働した方が具合がいいだろう。それは、チェーンの油を巡らせるという観点から。  それなのに、寒い日の身体が、サドルの低い方ばかり選んでしまうのはなぜか。寒い日の身体を思い出してみる。首をすくめて、背をまるめて、うずくまりたくなる。風を受ける表面積を減らすためだ。サドルが低い方が風がとおり

      • アニメ小市民シリーズ

        今回は、堂島家のキッチンが謎解きの舞台なのだが、突然、川辺の風景に背景が変わる。そしてすぐ、もとのキッチンに戻る。 そのことの説明は何もない。謎解きの内容と川辺との関連性はない。 しいて言えば、キッチンが水場であるということか。 これがアニメの表現なのか。アニメ特有の表現だ。 川辺の風景はエンディングにも出てくる。実写のバスの中にアニメの登場人物が座っていたりする。 私は風景を見て、冬期のストーリーを想起した。冬から春を見かえすことで、何気ないできごとに意味がでてくる。

        • 川野里子編『葛原妙子歌集』

           乱気流で飛行機がひどく揺れたようだ。「アラスカの闇に激突」が印象的だ。まるで、国境が空中に透明な壁として伸びているような感じがした。実際に、透明な壁として伸びていると言えるかもしれないが。  空中でコーヒーを飲んでいることの不思議さにも、改めて気づかされる。  地階から出てくると小さい顔になって出てくるというのがおもしろい。ドラえもんの道具で、トンネルをくぐると体が小さくなる道具があったような気がする。  地上に出ると視界がひらける。世界が広がることで、相対的に顔が小さく

        • 固定された記事

          カラス

           鳥が飛び立つ時、まず羽が動きはじめる。「やや」と言っても、その差は数マイクロ秒。  しかし、短歌のなかでは時間が引き延ばされる。この歌では、取り残されたカラスの足が見える。

          キャベツの芯

           想像上の都知事の執務室の椅子の光沢感やボリューム感に、キャベツのイメージとの共通性がある。  人は、どうしても、食するという観点から、キャベツというと葉に意識がいきがちだ。けれど、この歌を読むと、キャベツの中に芯が浮かび上がって見えるようになる。

          キャベツの芯

          黒蟹県に行ってきました

          絲山秋子『神と黒蟹県』 架空の黒蟹県が舞台。 ひろくまっすぐな道路。 隣接市同士の対抗意識。 日本のどこかに、日本のどこにでもありそうな風景。 推理小説は、架空の都市が舞台になっていることが多い。それは、凄惨な事件を実在の都市で、フィクションとはいえ起こすと、都市のイメージダウンになるからなのか。 でも、逆に人気シリーズの推理ドラマが、京都や実在の温泉地を舞台にしていることもあるので、そうとも言えないか。観光名所のピーアールになりそうだ。 ともあれ、推理小説の架空の土地の

          黒蟹県に行ってきました

          河野裕子『うたの歳時記』

           桜、晩夏、年の暮など、季節ごとに、短歌や俳句が紹介されている。その季節に読むのはもちろん、季節に先立って読んで準備したり、季節が過ぎた後に、振り返って読むことができる。  季節ごとの歌を、念頭に置くことで、過ぎゆく時間に、奥行きができる。  『霜月』には、二首ならべて、次のような歌が紹介されている。  十一月は、もう少し先だけど、楽しみになってしまう。秋のおわりの、スモーキーな雨。内面の暗さと外の景色の暗さが一致するせいか、落ち着く。

          河野裕子『うたの歳時記』

          カフェの時間

           以前よく行っていたカフェに久しぶりに行ってみた。電車を三つのりついでいく。  コロナ禍以来、足が遠のいていた。近所にいいカフェが見つかったこともあって、わざわざ電車にのるのが、大儀に思えた。  でも、プレヤッサという鶏肉のレモン煮が食べたくて、今日は電車にのった。  久しぶりのプレヤッサも、色の薄いコーヒーもよかった。  味覚や空間もたんのうしたが、なにより、時のながれを再発見した。日常とカフェの時間のながれはちがう。そして、カフェごとに時のながれ方がちがう。  これまでそ

          カフェの時間

          友達のうた

          窓のない小部屋のようなひとだったあたたかくって散らかっていて ともだちは不思議なひとで夕暮れの駅のホームのベンチに似てた 離れすむきみと揃いの傘させば空がつながるような気がした

          踏切り

           生きることに、「いつも」という副詞が付いているのが、すごい。なぜなら、死ぬまでは、生きているからだ。生きることは、その長短や密度に個人さこそあれ、一定期間、継続する状態だからだ。つまり、死なないかぎり、「いつも」生きていて、当然だから、「いつも」とは通常言わない。  そこにあえて「いつも」と付けることで、逆説的に、生の不確実性が立ち上がる。死につかまらないように生きるということだ。「踏切り」は、生と死の分岐点といえる。  「青嶺」を、遠くても希望だと、私は思いたい。

          旅先の時間

           旅をすると日常の時間の流れから、切り離された別の時間に身を置くことになる。旅先で立ち寄った場所の時間が、日常の時間と同様に流れているとはとても信じられない。  この歌の扇風機の回転は、時間の進行を表しているのではないだろうか。時間とは、私という認識する主体があってはじめて、存在するものだ。

          おっとせい

           社会になじめない。世間話が分からない。人と笑い合うことができない。人間嫌いの人間も、おっとせいから見れば、たんに、違う方向を見ている人間なのだろう。  「むこうむきおっとせい」と思うと、ちょっとかわいくなる。  

          道頓堀

           この歌について、小池光が『茂吉を読む―五十代五歌集』で、盛大なツッコミを入れている。  東京にいて、渋民村を思うなら、落差があるから、歌の規範に沿っている。歌には、落差や飛躍が必要だ。この歌は、東西の盛り場を併置しただけで、歌になってないと言うのだ。  このツッコミがなければ、私はこの歌を大歌人の歌として、失敗に気付かないまま、通り過ぎてしまったことだろう。  「あめ」がかなにひらかれていて、やわらかな雨が感じられる。この歌は、韻律がうつくしい。外形の端正さと、内容のトンチ

          木立

           「丸いほっぺ」から、全体的にふっくらした様子を思い浮かべる。また、よく笑顔を見せていたのだろうなとも想像する。  「木立へ消える」から、後輩の身を案じる気持ちが感じられる。そして、職場に残る身として、仕事を回していく自らの不安もあるのだと思う。

          友の家

          この短さのなかに、「友」という言葉が2回出てくる。重ねて言うことで、友の不在が感じられるのが、不思議だ。英語でも、こうなるのだろうか。  後の歌を読むと、介護施設にいる友に、友の子と一緒に会いに行く前の晩なのだと分かる。  家、裏山、電車の地図が描けそうなくらい、場面がイメージしやすい。夜汽車のさびしさをきしませるような音。友がいなくてさびしいけれど、友の子の存在は心づよい感じがする。